あなかしこ 第67号

門徒随想

時代は令和となり日本人が浮かれ気分でいる一方、ここ最近、世間では悲しい出来事が立て続けに起きている。高齢運転者による数々の死傷交通事故、川崎市登戸の20人殺傷事件、この事件に関連してか引きこもり気味で暴力的な長男を元政府高官が殺傷した事件など、このような事件・事故の連続に心を痛めるのは私一人ではないであろう。

このような事故や事件がどうして起きてしまうのだろうか? 事件を起こした当事者の個人的な問題なのか? たまたま偶然にそこに居合わせたからなのか? 何か社会の中で構造的な問題が背景にあるからなのか?(例えば、現代は親子であっても家族関係が崩壊・孤立化し、居場所がなくなった当事者はその鬱憤を社会に向けるなど) 何はともあれ、このような事故や事件が極力起きないよう、英知を集めて出来得る限りの社会的な対応は早急に進めて欲しい。しかし、それで事件は解決するのか?

このような事件・事故を起こした加害者は、現代社会の闇に繋がるような何らか共通する背景事情があるように思う。そこのとこから解きほぐしていかないと、本当の解決にはなっていかないだろう。また、残念ながら亡くなった方の遺族、生き残った被害者の方々などの心の痛みのフォローはどうするのか、当事者でない我々世間一般の人間でも心がシクシクと痛むのである。ましてや事故・事件関係者ともなれば、なぜ私らがこんな目に遭わなければならないのか? 関係者は悲しみと同時に強い怒りを覚えるに違いない。加害者が裁判を経て社会的制裁を受けたとしても遺族等関係者の心は決して癒されないだろう。そして心理学やカウンセリング、哲学などの学問的な癒しの場に身を置き、学問やヒューマニズム的アプローチで心を一時でも安住できれば良いのだろうか?

そんなことを考えると、最終的には“生老病死”や“苦悩”という宗教的課題にぶち当たっていくのだろう。そこからの救いは、宗教的な自己への問いかけ・聴聞によって時間をかけて“願”によって救われていくしかないのではなかろうか。

そんなことを思いつつも、犠牲者の方々には『南無阿弥陀仏』と合掌・念仏するほか、今の私には出来ることはない…。

事件とは関係ないが、既に還浄された法友や先輩のお顔も浮かんできた…。 合掌。

篠﨑一朗 (釋一道 60歳)
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