あなかしこ 第66号

法話

テーマ 何を大切に生きていますか 
第3回 信心
講師 藤原正寿先生 大谷大学准教授、石川県・浄秀寺住職、55歳

真宗入門講座 
2018年9月1日(土) 於:常福寺

正しい信心とは

  • 藤原正寿先生

みなさん、こんにちは。今ほどご紹介いただきました藤原正寿と申します。今回、自主聞法会の連続講座という形で設定していただきまして、初回は「本願」、2回目は「念仏」、そして3回目は「信心」、最終回は「浄土」ということで、親鸞聖人の浄土真宗という教えの一番根幹を成す大事な言葉を手掛かりとしながら、「私たちにとって大切なものとは何ですか」というテーマで、このご縁をいただいております。今日は3回目ということで、親鸞聖人における信心ということについて少しお話をしていきたいと思います。

今回は「信心」がテーマですが、信心というと皆さんはどのような印象を持たれていますか。信仰と信心というのは、ほぼ同義語に使われますが、厳密に言うと少し違います。私たちにとって信心とは、仏さまの教えを自分が信じていくことを言います。昔から「いわしの頭も信心」と言いますが、何か自分がすがるものとか、自分が大切にするものを持って生きていることを信心のある人と表現しがちです。

では、親鸞聖人にとって信心とはいったい何なのかということを考えていきたいと思っています。先ほど「正信偈」をお勤めしましたが、「正信」というのは「正しい信心」、「偈」というのは「詩(うた)」という意味です。親鸞聖人は、浄土真宗における大切な内容を、出来るだけ私たちが生活の中において身近にいただいていけるように、仏さまの教えを身近に感じられるように、このような「偈文」にして大事な教えを伝えて下さっています。その「正しい信心」とはどういう信心かということについて、蓮如上人が『正信偈大意』の中で「正というは、傍に対し、邪に対し、雑に対することばなり」(真宗聖典、747ページ)と述べておられます。これが正しい信心ですよとストレートにお答えにならずに、こういうものでないものを「正しい信心」というのだと、おっしゃっているのです。

「傍」というのは、「かたわら」という意味です。自分にとっての生活信条なり、自分の生き方に対する考え方をいうのです。アクセサリーとして信仰を持ち、自分の生活に宗教を取り入れていくようなあり方を言うのです。次の「邪」は「よこしま」という意味で、自分の都合の良いように仏さまの教えを利用しているということです。最後の「雑」というのは、いろいろなものが信仰の中に混ざっているということです。日本人は様々な宗教的な情操の中で生活しています。そういう「雑」でないものを正しい信心というのだと蓮如上人はおっしゃっています。

ですから、信心は、自分が何かこういうものが大事だとしてそれにすがったり、それを手に入れたりするというよりも、日常の私たちのあり方がこういうあり方になっていませんか。自分の都合の良いように宗教を利用して、宗教を立場として生きているような自分になっていませんか。他に大事なものがあって宗教がそれを補うような形で、自分の生活にプラスして、宗教も大事だよねっていう形で、宗教や真宗の教えに関わっていませんか。そういうあり方を、自分自身で確かめるための「よりどころ」、そういった自分の日ごろのあり方を照らし出すものを、親鸞聖人は信心とおっしゃっているのです。つまり、自分が信じ込むとか、これが大事だと言ってそれを握り締めるとか、そういうものを親鸞聖人は信心とはおっしゃっていないのです。

信心とは、自分が手に入れて、これで大丈夫だと言って安心するような心の動きを生み出すようなものではないのです。むしろ、日ごろの自分が、自分の物差しで、仏さまを利用したり、仏さまにすがったりするような都合のいい信仰を求めてはいませんか。そういうことを問いかけてくるものこそが、本当の信心なのです。信心というのは仏さまの心を私たちがいただくことなのです。私たちは自分が信心をいただくと考えるけれども、親鸞聖人は徹底してそうではないとおっしゃいます。日ごろの私たちのものの考え方やあり方を、それで本当にいいのかと照らし出し、破っていくものを信心というのです。だから本当に信心を得た人は、もう私は信心を得たから大丈夫と言ってそこで安心して腰を下ろすのではなく、そこから自分自身の日頃のあり方を懺悔(さんげ)したり、自分自身で自分の都合で人を裁いたりして生きている自分だったと懺悔の心が出てくるような、悔い改めようという心が起こってくる。そういう「はたらき」のことを親鸞聖人は信心とおっしゃっているのです。

1回目の時もお話ししましたが私のお寺の近所に、責任役員をして下さっている方がおられます。定年で東京の仕事を辞められて、仏さまのことやお寺のことを一生懸命やってくださっています。毎日、朝6時半にお寺に来られます。まず、お寺の境内の掃除をして下さり、それが終わってから自分の家の掃除をされます。その後、お寺で催しや聞法会があるときは、椅子を並べたりとか、掃除をしたり、準備を全部手伝って下さいます。聞法会では一番前でノートをとりながら聞いて、終わったら全部後片付けをして下さいます。本当に一生懸命される方で、頭の上がらないご門徒さんです。その方が1年ぐらい経った時に、お寺でちょっと雑談をしている時に僕にこうおっしゃいました。「どうやら親鸞聖人の教えは、学べば学ぶほど、自分の心が清らかになったり、清々しい思いをしたり、前よりも怒らなくなるのではなく、どこまでも自分が自分の都合によってものを見ている自分である、自分の物差しで人を裁いたり、自分の善悪とか損得の価値観で世間を見ていたりする自分がいるのだということを教えてもらう。つまり、自分が思っているよりも自分勝手で愚かな自分に気づかしてもらう教えなのです」とおっしゃったのです。浄土真宗の教えを大事に聞けば聞くほど、いかに自分が愚かであるかということに出遇うのが真宗の教えそのものですから、その方がお答えになった内容は親鸞聖人の御心にかなう了解でありましょう。私もその方が教えを学び、本当に素晴らしいものに出遇ったのだと思いました。

聞即信

私たちは、仏教の教えに触れて信心を得たと思った瞬間に、触れた中身よりも触れることが出来た自分を肯定したい、褒めてもらいたいという心が生まれて来ます。それが親鸞聖人のおっしゃる信心の難しいところです。だから信心を手に入れたら、決してそこで腰を下ろしてやれやれとなるのではなくて、信心をいただいたら、ますます仏教の教えを聞かなくてはならないという心が私の中に起こって来るのです。親鸞聖人は、「聞く」ことと「信心」とは同じことである(聞即信)とおっしゃいます。聞いたら信心が得られるのではなくて、聞くことの大切さに目覚めることが信心であるのです。つまり教えを聞いていかなければ、どこまでも自分の都合や自分の物差しでものを見ていく自分なのです。そういった自分に気付くことが信心なのです。私が仏法の教えを聞いて信心を得るのだという発想の先には、本当の信心の世界はないのです。

信心をいただくことは、即ち、聞かなければならない自分だということに目覚めることなのです。聞かなければならない私だったと気付くことが、信心というのであって、聞いて今の自分が前よりもましな人間になったり、少し違う境地が開けてきたり、そういうものを信心と思っていると、真宗の教えをいくら聞いても信心は手に入りません。だから、仏法いくら聞いてもわからんとなるのです。もう一歩進んで言うと、教えを聞けばやがて信心が得られるのだという大前提で教えを聞くから、何遍聞いても自分が求めている答えにはたどり着けないのです。わからないから、もう少しわかりやすく話して下さいと言われますけれど、正解を手に入れたら、もうそれで安心なのですか。そうではなくて、聞き続けなければならない自分だった、そこに気づかされていくことが、信心を賜るということなのです。だから信心を賜った人は、仏さまの心が自分の中に宿るわけです。教えを聞いて信心を賜ったら、ますます聞こうという心が起こってくる。もう私は十分に聞いて、信心を賜ったからもう私は聞く必要がないのだと思うとすれば、それは信心ではありません。自分の都合の良いように教えを理解し、聞いた話によって人を裁くようになる。もっとお寺に身を運べばあなたも少しは立派になれる、と言いたくなる心が自分の中で起きてくる。それは、私は聞いて信じることができた、というところに立っているからです。私が聞いたというところに立って、聞いていない人を馬鹿にしたり、裁いたりするわけですから、かえって、その人は前よりも鼻持ちならない人になってしまったということになります。自分の信心を賜ったという体験に固執してしまう。そういう心としての信心はないのだということです。

例えば自動車の教習所に行って、実地の運転の練習をして、交通ルールを学んで免許を手に入れたらもうこれで終わりでしょうか。仏教の教えは信心を得たら終わりでなくて、ここから始まっていくのです。信心を得たところから、聞かなければならないという自分だということに、あらたな自分自身の人生の意味を賜る、それを信心と親鸞聖人はおっしゃっています。

「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬれば なるこにぞのる」(聖典、886ページ)と蓮如上人の『御一代記聞書』にあります。雀はお米を食べますから、農家にとって害鳥です。雀にお米を食べられないように、田んぼの周りロープを張って鳴子をつけて、カラカラカラと雀を驚かします。しかし、何度も鳴子が鳴っていると、雀が慣れてしまい、雀も平気になってしまうのです。仏教の信心も、いつのまにか私は仏教を聞いてきたというところに立つと、俺は仏教をわかったというところに立って、あぐらをかくようになる。このように蓮如上人はおっしゃっているのです。

また、蓮如上人は同じく『聞書』のなかで「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり」(聖典、879ぺージ)とおっしゃっています。一生懸命、丁寧に仏教の教えを聞いても、その仏教の聞き方が、得手に聞くような聞き方だったら、だめなのです。自分の都合や物差しで、仏教の教えを聞いているようでは、それは仏教を聞いたことにはならない。今の自分に仏教を聞いたということを足し算するだけで、俺は仏教を聞いたぞと威張るようになるから、そんな人は仏教を聞かない方がまだましだという蓮如上人の厳しいご指摘です。

親鸞聖人にとっての信心とは、何か外にある仏教というものを自分の中に吸収し、今までと違う特殊な体験をしたり、特別な心を手に入れたりするものではありません。だから、本当に浄土真宗の信心に目覚めた人は、もう聞く必要がなくなるのではなくて、信心に目覚めれば目覚めるほど、ますます教えを聞かなければならないと、教えを聞く場所に身を据えるようになっていくのです。

「お浚え」(おさらい)の勤行

報恩講は「如来大悲の恩徳に報いる集い」ですから、阿弥陀如来が私たちを救いたいと願って本願を立てて下さったその願いに、私たちが報いていくための集いが「報恩講」という行事です。ですから、真宗のお寺では一番大切な行事が報恩講になります。それは、仏さまの願いに対する感謝の気持ちであると同時に、それを私たちに伝えてくださった親鸞聖人やたくさんの先生方に感謝する集いでもあるのです。ところが仏さまの心をいただくことをせずに、自分勝手に教えを聞き、精神修養や心の安心といった自分の都合で、仏さまに手を合わせたり報恩講に参ったりしてしまう。これではだめなのだということを教えてもらうための大事な縁が報恩講という場所でもあるのです。だいたい報恩講は恩徳讃で終わりなのですが、そのあと「お浚え」(おさらい)の勤行があるのです。浚うわけです。その時にお勤めする和讃が、「仏智の不思議をうたがいて 自力の称念このむゆえ 辺地懈慢(へんじけまん)にとどまりて 仏恩報ずるこころなし」(聖典、505ぺージ)です。仏さまの大切な智慧が、私たちになくてはならない仏さまのお心を疑って、さらに自力の念仏をこのむ、つまり自分に都合のいいものを手に入れるために仏さまに手を合わせるということをするので、結局は仏さまの大事なご恩の世界ではなくて、「辺地懈慢」という人間の都合や欲望がぶつかり合うこの世界に留まってしまう。自分の思いや都合に留まってしまって、仏恩報ずるこころもないのです。私たちには仏恩を報ずる心など、さらさらないのでしょう。どこまでも自分の都合の良いように利用したいという心をもっている自分なのです。こういうことをもう一回確認するのが「お浚え」なのです。

これで信心をいただくことができたと思っても、何度も何度もお浚いするじゃないですか。できたと思ってももう一回確認する。浚うというのは丁寧に、綺麗にするという意味です。ですから「お浚え」を現代語に直すと「定期点検」という意味です。自動車もそうですし、溝もそうです。溝も1年間放っておくといつのまにか泥がたまってしまいます。報恩講は信心の水浚いをするために勤めるのです。信心というと私たちは仏さまの教え、親鸞聖人の教えを大事にする心をもつことを信心というのですが、その信心を放りっぱなしにしておくと、いつのまにか仏さまの信心ではなくて、自分に都合のいい信心になってしまうのです。本当に大事な仏さまの教え、仏さまの本願の教えに感謝し、その教えに報いなければならないというのは外面で、内実はどこまでも仏さまの教えを疑い、自分の都合のいいように、仏さまを利用しようとするような根性しかない自分なのです。そういった事実に目覚めていく、そういう自分を知っていくことこそが、本当の信心の中身なのだと親鸞聖人はおっしゃいます。仏さまの本願の世界に感謝の心を持つことは、自分に都合のいいものを手に入れたいという私のあり方、根性、自分の価値観を振り返る、反省することにほかならないのです。信心とは手に入れて大事にしまい込めるようなものではなく、触れていく世界、開かれていく世界なのです。立ち上がり、そこから再び新たな歩みが始まっていく世界なのです。

「われら」という世界

親鸞聖人の『尊号真像銘文』のお言葉の中に「十方衆生というは、十方の、よろずの衆生なり。」(聖典、512ページ)とあります。私たちは世界の中心に自分がいて、自分の周囲にいろいろなものがあると考えますが、仏さまの眼からはどこでもどんな人も、という意味なのです。仏さまは、どんな国のどんな人であれ、区別や分別を超えている世界が十方衆生です。「よろず」とは全てのという意味です。誰ひとり漏らさない、選びをしないということです。翻って、私たちは自分の価値観で物事を見ます。そういった私たちの見方を破るのが仏さまの心なのです。この十方衆生という言葉は仏さまの心を表現しています。仏さまはどんな人も区別しないけれども、私たちはいつも区別、差別をして生きていることを教えて下さるはたらきが仏さまの呼びかけなのです。親鸞聖人は、信心を得ると柔らかくなると言われています。

『大無量寿経』にある四十八願の第三十三願に触光柔軟(そっこうにゅうなん)の願があります。仏さまの教えに触れたら、仏さまの心に触れて信心が芽生えたら、柔軟になると仏さまは誓いを立てていらっしゃるのです。私たちは仏さまの心に触れなければ、かたくななままです。仏さまの願いに触れることがなかったならば、私たちは他の人の存在を認めることができないのです。他の人を認めるためには自分の物差しが間違っていたことに気づかされるはたらきに触れなければ、できないことなのでしょう。信心とは、嫌いな人を無理矢理好きになることではなく、「われら」という世界をいただくことなのです。それぞれが、仏さまから十方衆生と呼びかけられている者の一人として、平等にいのちをいただいた一人なのだ、ということに眼が開かれていくのが信心なのです。その信心を得たら嫌いな人も仏さまから願われている一人なのだと、その人の存在を認められるような自分になるのです。これが仏教の教えであり、信心の世界なのです。

「正信偈」の中に「獲信見敬大慶喜」(ぎゃくしんけんきょうだいきょうき)という言葉があります。親鸞聖人直筆の「正信偈」は何度も書き直しをされているのです。親鸞聖人は「獲信」(信心を獲る)という字を文頭にしながら、この句に苦労された形跡があるのです。信心を獲るということは、具体的にどういったことなのかを、親鸞聖人はこの一句で表現したかったと思われます。その次の「見敬大慶喜」(見て敬い大きに喜ぶ)も様々な解釈ができますが、私は、信心を獲たら具体的に私たちが見て敬う人間になるのだということだと考えています。もし信心を獲得(ぎゃくとく)しなかったら、私たちはどこまでも自分の都合によって周りの人を見ます。自分にとって都合のいい人のことは敬うし、自分にとって役に立たない人には自分が見下げるようなことをします。そういう私たちが信心を獲得したならばどうなるかというと、お互いに相手を見た時に一切のものを尊敬することができるお心を賜ることが信心というのだ、というふうに親鸞聖人はおっしゃりたかったのだと思います。

「十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり」という仏さまの願いに目覚めることが信心ですから、仏さまの心に触れると、それまでは自分の都合によって自分のかたくなな心によって、自分にとって都合の良いものは欲しいし、都合の悪いものはどこかへ行って欲しいというような、自分の都合の物差しでしかものを見ていなかった私たちの心が翻されて、信心を獲得したならば、一切の事柄や一切の人々のことを尊敬する心で見ることができるような人間として、私たちが育てられるということが、信心を獲得ということなのだ、というふうに親鸞聖人は読んでいこうとされたのではないかと思うのです。自分自身をどうしても救いたいという仏さまの願いに触れた時に、全ての人を平等なる存在として照らす光として私たちに呼びかけて下さっているのが仏さまのお心なのです。その心に触れた時に、私たちは今までの自分の頑なな自分の都合でしかものを見ないような見方が翻されます。

あるお寺の坊守さんがものすごく怒っていて、住職さんが「何でお前、そんなに腹をたてるのだ」と聞いたところ、「酒屋が半年分の集金に来て、その時の請求のお金が23,845円だった。なんで23,800円にできんか」と言って怒っているわけです。「お寺と酒屋は、長い付き合いなのだからせめて端数ぐらい何で切れんのか」と腹を立てているというのです。その姿を見た住職さんが「あんな小さな端数に、何で切り捨てられんかと言っているお前の方が、その端数にこだわっているのではないか」と言っている文章を読んだことがありました。私たちは自分自身の姿はなかなか見えなくて、相手がケチだとか相手が悪いということは見えるけれども、自分自身がそのことに一番こだわっていて自分が一番ケチだということにちっとも気付かない心をもっている。私たちの心は、損得と善悪と好き嫌いしかないわけです。だから、その眼が翻されて他の人を尊敬するような柔らかな心を賜ることが信心なのです。そのためには、仏さまから願われていのは、自分ばかりではなく、他の存在もまた同じように十方衆生と呼ばれている存在であったのだということに気づかされてくる。今まで敵対する相手でしかなかった存在が、同じ仏さまの願いの中にいる一人として、相手を敬うことができる眼をこちらがいただくのです。

人間をとりもどす

4月21日、東京駅の丸の内で親鸞フォーラムという行事がありました。ゴリラの研究者の山極壽一先生(京都大学総長)は、人類と他の動物たちの違いは、お互いがお互いを助け合っていくこと。そして、他の人の悲しみや苦しみを、自分の悲しみや苦しみとして感じられる能力、共感能力があることだとおっしゃっていました。他の人の悲しみや苦しみが、自分の悲しみや苦しみのように感じられる能力を持ったというところに、人間の大事な能力、人間が人間であるという大事な確認点があったのに、いつの間にか人間は自分さえ良ければというようになってきて、他の人のことを疎かにするような価値観に毒されてしまった。そうなってくると、ゴリラの方がよっぽどマシだと山極先生はおっしゃいます。

ゴリラは、他の者を受け入れ自分たちの中で助け合って生きていくという、人間の原初の形態を保っています。ところが人間は進化という名のもとに、自分さえ良ければという自分の都合を優先するようになって、自分の価値観を満たすこと、自分の手に入れたいものを手に入れることこそが、自分の幸せだと信じて疑わないようになってしまった。これは人類が進化したのではなくて、最近の人類は退化し始めたのです。だから山極先生は、人間はゴリラに学んでもっと良くなりましょうと。人間の方がゴリラよりはるかに優秀だと人間は思っていますけれども、山極先生は「ゴリラの二倍の脳みそを持っている人間よりもゴリラの方がよっぽどマシだ。ゴリラに学んで人間性を回復しましょう」とおっしゃっていました。このように、人間が目先の利益や自分の都合に振り回されて生きていて、そのことを反省しないようになってきた。そういう在り方を先ずはきちんと照らしてもらうところに仏教の第一歩があるのです。

今から2万5千年前のネアンデルタール人の集落の遺跡が発掘され、それを見ると集落の真ん中にたくさんの人骨が発掘されました。つまり、お墓とか人を葬る場所が集落の中心にあったのです。現代人は死というものを私たちの生活からできるだけ遠ざけて見るということが、健全で豊かな人間の在り方だと考えられています。死ぬということは頭ではわかっているけれど、そのことを見ないようにして生きることが、私たちの健康で幸せな生き方なのでしょうか。2万5千年前の集落の遺跡を見ると、実は集落の真ん中に人骨がいっぱい出てくるということは、村の真ん中に人の葬送のための場所があったのです。しかも、その人骨の周りから花粉の化石がいっぱい発掘される。つまり、亡き人に花を手向けて送るということが、生活の一部の中に普通にあったということです。死ということも人生の一部なのだと、誰もが死すべきいのちをここにいただいて生きているのだということが、共通の感覚としてある中で生活をしていたのです。「生死一如」です。それがいつの間にか生のみが私たちの中心であって、生きていることが当たり前で、より良くいかに生きるかとか、今よりももっと豊かになるにはどうするかという、欲望を満たすことこそが私たちの幸せに直結するのだと、疑わなくなってしまいました。ここにいのちを賜ったこと、自分が生きているというよりも、生かされてあるいのちだということに気づかせてもらう。死とは本来自然のものなのです。現代社会の私たちは死から距離を置くことで、自分の生活や人生の意味を感じられないようになってしまったのではないでしょうか。これは、人間にとって大事なものを失ったことなのではないでしょうか。

自分の都合でものを考えて生きていくような我々の日頃のものの在り方が翻されて、仏さまの願い、全てのものを平等に慈しみ救いたいという仏の願いを、我が心としていただいていく。しかしながら、私たちの心はどこまでも自分中心です。そういう自分が、仏教の教えを聞く場に身を据え続けなければならない。そういう自分に気づいていくことが、親鸞聖人のおっしゃる信心ということの大事な意味だと思います。

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