あなかしこ 第65号

法話

テーマ 何を大切に生きていますか 
第2回 念仏
講師 藤原正寿先生 大谷大学准教授、石川県・浄秀寺住職、54歳

真宗入門講座 
2018年3月3日(土) 於:聞明寺

はじめに

  • 藤原正寿先生

こんにちは。真宗入門講座も2回目を迎えました。この真宗入門講座では、テーマが「何を大切に生きていますか」というように、私たちへの呼びかけになっています。今日ここに足を運んでいただいた皆さま方への、皆さんは何を大切に生きていますかとの問いかけであるとともに、このテーマを考えた人にとっても大事な問いであろうと思われます。自分は一体何を大事にして生きているのだろうか。我々にとって本当に大切なものとは何なのかということが、この入門講座のテーマになっているわけです。

普段、このような聞法会は一回ごと開催されたらそれきりになることが多いのですが、私が話をしたことを一度全部文字に起こしてくださって整理してくださいました。しかも、私たちが読みやすいように見出しをつけてくださったのは、なかなか簡単にできることではありません。そういう意味ではものすごく緊張しています。いつもはしゃべったらしゃべりっぱなし、逆にいうと聞いたら聞きっぱなしで終わる会がほとんどの中で、一回一回のことをきちんと確かめながら次に進んでゆく。自分たちが聞いたこと、あるいは私が話したことを、あなたしっかりと確認しなさいよと突き付けられているようなものです。読ませていただいて、案外話している私も、自分の言葉にきちんと責任を持って話しているのではないということを、改めて思い知らされております。この入門講座に来てくださる皆さん方も、支えてくださっている皆さん方も、一生懸命やってくださっているのだと実感しています。いつも以上に身を引き締めて話をしたいと思います。

前回のサブテーマは「本願」でした。そして今回は「念仏」です。次回は「信心」そして最終回が「浄土」です。その予定でこの講座は開かれていくわけですが、次回も来ようと思っても、来るご縁が実らないかも知れません。何か特別なことが起きて来られないかもしれません。一回一回のご縁が私たちにとっては、その時その時のかけがえのないご縁であって、先々のことは、その予定通りいかないところが私たちのいのちの事実であります。だからこそ「何を大切に生きているのか」ということが私たちにとって大事な問題になるわけです。そういった身、いのちでありながら、その私たちをいつも支えてくださるようなよりどころ、本当に安心してまかせられるような教えを大切なものとして私たちは生きているのかどうか、問われているのだと思います。

本当の救いとは

親鸞聖人の和讃に「弥陀成仏のこのかたは/いまに十劫(じっこう)をへたまえり/法身の光輪きはもなく/世の盲冥(もうみょう)をてらすなり」という和讃があります。阿弥陀がすでに仏になられてからすでに十劫という長い時間が過ぎました。阿弥陀さまが法蔵菩薩の時に、悩み苦しみを持って生きている私たちを全て救いたい、迷いの世界から、迷いを超えた世界に渡したいという誓いが満たさなければ、私は仏になりませんというのが、法蔵菩薩の誓いだったわけです。その建てられた誓いを本願といいます。本願が誓われて、すでに阿弥陀仏になられて十劫の時間が経ったと親鸞聖人が和讃で詠んでおられるということは、もう阿弥陀仏として仏になられたということです。もともと、一切衆生が救われなければ仏にならないと誓った法蔵菩薩がすでに阿弥陀仏になられているということは、私たちはすでに救われたということに繋がっていくのです。

しかし、私たちはすでに救われているのだから何もしなくていいのですと、親鸞聖人は仰っているわけではありません。私たちはすでに仏さまの大きな願い(本願)の中にこのいのちをいただいているのだけれども、いただいておりながらも、まだまだ自分に都合のいい結果を求めて救われたいと思っているのです。つまり、仏さまの救いの中にいのちがあるのにもかかわらず、そこから手を出して救って欲しいと言っているけれども、私たちが救いを求めているその方向性のその先に救いがあるのではないのだ、ということを教えることが先ほどのご和讃の意味なのです。

私たちの願いがそのまま自分の思い通りに叶うということが本当の救いとはなり得ない、ということを明らかにしてくれるのが浄土真宗なのです。この点をまず申し上げたいわけです。

親鸞聖人の救いは、私たちが願っているようなご利益とはちょっと違うのです。むしろ親鸞聖人が仏教に求めていたものは、実は自分の都合ばかりで求めているのが私たちの姿であって、それを永久に願い続けている限りは本当に大切なものに出遇うことはできませんと。つまり、私たちが願っているものが叶ったらいいなと思う心自体が、実は迷いの心であったのだということを、教えてくださるのです。私たちが普通宗教に求めているものは結果でしょう。北野天満宮であれば合格しますように。あるいは京都にはいろいろな神社があり、無病息災を掲げたり、パワースポットになっている所もありますが、そこに行きますと、気が充満する、元気が出るらしいのです。このように、自分にご利益として成果がもたらされることが、普通私たちが求めているような宗教の形です。親鸞聖人がおっしゃる浄土真宗は結果によって救われる教えではないのです。結果ばかり求めている私たちが結果を求め続けていった延長上に幸せがあるのだと思い込んでいるけれども、結果が満たされるだけでは本当に幸せにはなれません。なぜなら、一つの結果が満たされても私たちはそこに満足できず、また次の願いを起こすでしょう。

自分の願いが満たされることばかり求めているのでは、いつまでたっても満足ということがないのです。次から次へとそういう欲求が起こってきてこれで十分ということがないものだから、いつも欲求不満の状態になります。年々、年齢を重ねるにしたがって、自分の思い通りにならないことが増えてくるのが私たちの人生なのです。自分の欲望に振り回されているだけなのです。その欲望の根っこにあるのは迷いなのです。自分の本来のあり方というのは外に限りなく結果を求め続けている、その欲望に振り回され続けているのが私たちの本性なのです。それを仏教では「凡夫」であることを知るといいます。煩悩を限りなく起こし続け、その煩悩が満たされることが幸せだと思い込んでいる私たちのあり方を、仏さまの教えに照らされることによって、そのような迷いから解放されていく、そういったものが本来の救いでしょう。

果を求めるのではなく、因に目覚めていくこと。何かを手に入れる幸せではなくて、因に目覚めていく幸せ。そういう煩悩に振り回されている自分だと気づいたら、実は、今、外に幸せや願いをかけていて新たな救いを求めなくても、もう既に救われているのですよと仏さまから呼ばれ続けていた自分であったことに気づくということが、救われているということの内実です。これから救われるのではなくて、もう既に救われているのですよと親鸞聖人が表現した意味なのです。

つまり、ここから先に新たな救いや、自分勝手な願いを求める必要がなくなるということが、すでに救われているということであります。何にもしなくてもいいわけではなく、仏さまの光に照らされた生活をする。これが、仏の教えを聞いて生活をしていくということの内実なのです。

自分たちの願い事を叶えてもらうために仏さまに手を合わせるのではなくて、むしろ仏さまが私たちに語ってくださる声に言葉に耳をかたむけ、その教えの言葉の前に自分の身を据えること。聞法の場に身を運び続けること。それが親鸞聖人が願われていたことなのです。浄土真宗とは、親鸞聖人にとっては宗派の名前、組織の名前ではなく、ご自身が受け止めた仏教そのものを指す言葉なのです。

自力と他力

本日は、「念仏」がテーマになっています。「南無阿弥陀仏」は、親鸞聖人にとって大切な言葉であるわけですけれども、実はこの「念仏」ということは、わかりづらい、理解するのが難しい、誤解されやすい言葉であると思われます。なぜなら、親鸞聖人のもとで直接親鸞聖人から教えを聞いたお同行の方たちや、法然上人のもとで親鸞聖人と一緒に法然上人から念仏の教えを聞かれた人々の中にも、念仏の意味を誤解していていたということがあるからです。例えば多く称えれば救われるといった問題もそのひとつです。

親鸞聖人のお念仏というのは、念仏をたくさん称えたり、気合いを入れて念仏をしたことを頼りにして、その結果として仏の覚りをひらいていくというものではないのです。修行して覚りをひらいていく道を捨て、今度は簡単な念仏することで覚りを求めていくということでもないのです。それであれば、方法が厳しい修行から、念仏を称えるという方法に変わっただけで、やっていることに変わりはないのです。念仏したその結果、さとりを得ようとする──親鸞聖人はそういう歩み方を自力だと仰っています。自分が積んできた経験や自分の能力を頼みとして、それによって救われていこうとか、さとりをひらいていこうというのは自力なのです。それを拠り所にすることを捨てた方が親鸞聖人なのです。それを他力というのです。他力というのは何もしなくていい、何も努力しなくていいということではありません。自分のやってきたことを根拠にしたり、自分が積み重ねてきた経験や自分のスキルを根拠にして救われようとする道を捨てたということなのです。何もせず、努力しないで、棚ぼた式に口を上に開けていたらぼた餅が下りてくるみたいな、そういうイメージが他力本願にはつきまといますが、そういうことが親鸞聖人がおっしゃった他力ではなくて、自分がやってきたことを頼みとしてそれをあてにすることを捨てることなのです。自分の願っていることが満たされるという因から果への方向ではなく、自分の本当の姿、実相に気づいていく、目覚めていくという果から因に目覚めていくという方向なのです。こういった本来の自分のあり方に出遇っていくことが、親鸞聖人が大事された仏教なのです。

浄土真宗とは、自分がやってきた成果を積み上げていって救われていくのではなくて、本来の自分のあり方を照らしてくださる仏さまのはたらきに目覚めていく、仏さまのはたらきに出遇っていくことによって自分の迷いに気がつかされ、そこから離れていく。離れていくとは、迷いがなくなるわけではなく、煩悩というとらわれの心によって振り回され続けている自分だったということに、仏さまの願い、仏さまのはたらきによって照らされる、自分の本当の姿が知らされるところに、私たちは救われていく道があるのです。それが、親鸞聖人が出遇った他力のお念仏、他力の救いなのです。私は石川県の金沢の近くの出身なのですが、かつて近くのお寺に暁烏敏(あけがらす・はや)という先生がいらっしゃいました。「念仏か、あれは、おならと一緒じゃ」と言われたそうです。その真意は、お念仏もおならも自分が努力して出すものではなくて、ほっといても出るものだということです。おならを出すときに、どんな心持ちでおならをしたらよいのでしょうか、どんな心がけでおならをしたら、良いおならが出ますでしょうか、なんて考える人はいないでしょう。それと同じで、お念仏はこちらのはからいによって称えるものではないのです。仏さまが私たちの口を通して名告り出てくださるものなのです。仏さまが私たちに称えさせてくださっているものがお念仏なのです。これは出すものじゃなくて、出るものだから、つまりおならと一緒だと暁烏先生はおっしゃったのです。こちらの計らいや心がけで出すようなものは本当のお念仏ではないということを教えてくださったエピソードとして、今も私の中に強く残っています。

念仏を称える──諸仏称名と衆生聞名

念仏は回数の多さや心持ちの違いで信心が得られたりするものではないということを確認しました。念仏をしただけで簡単に信心をいただくことができるなら、念仏が、信心を得たり救われたりする手段になってしまいます。この点が念仏を誤解してしまう第一歩となるのです。おならと一緒で自然に出るものであって、救われようと意識して自分から出すものではないのです。仏の名を称えるのは我々ではなく、諸仏なのです。親鸞聖人が拠り所としている『大無量寿経』の四十八願の十七番目に諸仏称名の願があります。これはあらゆる仏さまが阿弥陀の本願は尊いのだとほめ讃えていることをいいます。私たちはその名のいわれを聞くのです。これは四十八願の中の十八願に言われている内容です。十八願の成就文の中に「聞其名号(もんごみょうごう)信心歓喜(しんじかんぎ)」が出てきます。「その名号を聞きて、信心歓喜せん」と、喜びの心が私の上に起こってくるのです。仏さまの願いが私たちの上に実際にはたらいたということは、名号を聞き、名号のいわれを聞いて、私たちの上に信心が起こってくる。信心が起こってくるということは、私たちの上に大いなる喜びの心が起こってくることなのです。なるほど、私のいのちとはこういういのちだったという事実に出遇えること、本当の自分の姿に出遇えた喜びなのです。自分が欲しがっていたものが手に入る喜びとは違います。私たちにとって念仏とは仏さまの名のいわれ、意味を聞くこと。それは自分に先立って仏さまの教えを大切にしてきた諸仏の念仏の声を聞くこと(衆生聞名)が私たちのすべきことなのです。親鸞聖人にとっては、法然上人が称えている南無阿弥陀仏のいわれを聞くこと、そこに託された大事な意味を聞くことなのです。念仏とは南無阿弥陀仏と称えるばかりではなく、仏さまの教えが尊いとほめ讃えてくださっている先生の言葉を通して、仏さまの名のいわれを聞き取っていくことこそが、私たちにとっての念仏なのです。どうしても私たちは、念仏して救われていく、念仏して信心を賜るというので、回数や心持ちだけではよろこびは生まれてこないのです。南無阿弥陀仏と称えて感動するのは、すでに自分が仏さまの教えに出遇っているからなのです。

仏さまの教えに大切なものを聞き取っているから、念仏した時に仏さまのはたらきに出遇え、諸仏から念仏の声やいわれを聞いているところに南無阿弥陀仏の功徳をいただいていくということがあるのです。そして、自分もまた念仏して生きる者となりたいという意欲が起こってくる。すると自然に口から南無阿弥陀仏と出てくるのです。親鸞聖人の本願を大切にして歩まれた姿を通して、私たちもまた念仏する生活をいただいて生きる者となるという連続性が、念仏相続で伝わってきた大事な伝統です。念仏は回数や称える心持ちが大事なのではありません。大切なのは仏さまの本願、教えの中にあると、私たちに先立って念仏されていた方々の大事な教えを聞かせていただく。仏法の場に身を運び、大事なものを聞かせていただくことにおいて、私たちに南無阿弥陀仏のいわれが伝わっていく。自然に私たちも念仏しようという心が起こって来るのです。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と、『歎異抄』第一章に記されています。

弥陀の誓願とは私たちを救うために建ててくださった本願です。不思議とは人間の思いを離れているということ。自分の計らいが計らいであるということをちゃんと知ることを通して、計らいを超えたはたらきとしての阿弥陀の本願に助けられるのです。間違いなく仏さまの国に生まれるいのちをいただいているのだと、念仏申そうと思い立つ心が起こってくる。これが信心でしょう。具体的にいえば、自分にとって大切な先生や言葉の中から南無阿弥陀仏のいわれを聞き取って自分もまた念仏する者になりたいという心が起こることが信心であって、その念仏申さんと思い立つ心が起こる時の念仏が親鸞聖人がおっしゃっている念仏なのです。

とにかく私たちは無意識に自分を立てていきたい、肯定したい、善を積んでマシな人間になったり、信仰深い人間になったりしたいという思いが、いつもあふれているわけです。小さい頃からそのように育てられていて、人間の本性もそこにあるから、何か手に入れて帰らないと損だみたいな気持ちがあります。

愚禿(ぐとく)の名告りと自己執着心

うちのお寺のお手次のご門徒さんの中に、東京の大きな製薬会社の重役をされた方が一人いらっしゃいます。何を思われたのか、私のお寺のすぐ近所の家の方で、田舎に戻ってこられたのです。そこには、昔の旧家なので、とても大きな仏壇があります。五百代という小さなお寺の内陣位の大きさなのです。その方のお父さんが、うちのお寺のことをずっと世話をしてくださっていた。その様子を見ておられた息子さんは、東京にも家があるのに私の田舎に戻ってきてくだされて、お寺に挨拶に来られて「うちの親父がそうだったように、これからは私も仏さんのことを大事にさせてもらいます。ひいてはお寺のことのお仕事をいろいろさせてもらいたいので、よろしく」と挨拶に来られたので、私は大変喜びました。皆さんのお世話をされながらも、一番前でノートをとって勉強しておられる。終わったら、皆さんが帰ったあときちんと片づけをしてから帰られるのです。なかなか出来た人ですね。しかも朝起きると、自分の家や庭の掃除をする前に、お寺の境内の掃除から始めるのです。申し訳ないやら、恥ずかしいやらです。

その方がある時私に「仏教を学んで、少しは今よりも、ちょっとはマシな人間になって、人格が円満になっていくのではないかと、密かに期待していました。ところが親鸞聖人の教えを聞けば聞くほどに、人格が少しずつ丸くなったり、今よりちょっとずつマシな人間になっていく教えではなくて、どうもいかに自分の都合ばっかりで、ものを考えたり、ものを言ったり、行動したりしている自分であるということに気づかされてきた。自分がどういう人間であったのかということを知らされていく、気づかされていく、そういう歩みが仏さまの教えを聞いていくことなのだということが最近うなずけるようになってきました」とおっしゃるのです。

親鸞聖人だって自分のことを愚禿だとおっしゃいました。これ、親鸞聖人ご自身が名告ったのです。愚かということを表現している字です。愚かであった自分がだんだん愚かでなくなって、角張った人格が丸くなっていって、少しはマシな人間になり、少しずつさとりに近づいて、愚かな親鸞が愚かでなくなって、仏弟子になるのではないのです。愚かな親鸞が愚かであるままに仏さまのお弟子さんにさせていただく。仏教の教えに出遇わせていただく。もっと言うと、自分が愚かであったということに気づいていくことによって仏弟子となった親鸞という意味です。

そのご門徒がおっしゃったのは、私は今まで、仏教の教えというのは少しずつ、一歩でも、半歩でも、今の自分が成長していって、しかも、これまでのような経済活動で成功していくようなやり方ではなくて、自分の人格が少しずつ良くなっていって、腹を立てたり、他人のことを妬んだりする心が少しずつ仏教の教えを聞いていったら少なくなっていって、やがてはそういうものがなくなって救われていくのだと思っていたけど、そういうのが仏教の教えだと思っていたけど、親鸞聖人の教えはそうではなくて、自分が愚かであるということにだんだん気づいていく、目覚めていくということ。それが親鸞聖人の大事な信心の中身です。その姿の大もとにあった方々が法然上人であり、七高僧であり、お釈迦さまであったのです。我々はなかなか自分のことを愚かであるということを認めることはできません。念仏のいわれが聞こえてくると、自分は愚かだと自覚されていかれた方が、親鸞聖人なのです。

私は、その方を心の底からすごいなぁと思ったのです。思ったのですが、私も根性がひね曲がった男なので、その方に何て申し上げたかというと、「私も今までいろんなご門徒さんと出遇ってきましたけど、あなたみたいな愚かなご門徒さんに遇ったのは初めてです」と言ってしまったのです。そうしましたら、その方はおいしそうにお酒を飲んでいたのに、トンと盃を置いて、唇を震わせながら青い顔になって、そのまま帰ってしまわれた。

ところが、お寺の近所にいらっしゃいますから、会わないわけにはいかないのです。次の日は来ないだろうと思ったら、次の日も本堂の境内を掃きに来てくださいました。一緒に掃除をしながら、その方がまず「昨日ごめんなぁ。自分で自分のことを愚かだと言って、私は若さんから愚かですねと言われたら、何か知らんけど腹が立って、これ以上言われたらお前のこと殴ろうとしてしまいそうな自分がいたので帰っていったのだ。帰宅してよくよく考えてみたら、自分で愚かだと言ったのだから人から愚かだと言われたら『はい、そうです』と言えばよいのに、若さんから愚かって言われたら腹が立ったのだ」と言います。

その方は、自分がほめられようとして自分のことを愚かだと言ったわけではありません。心の底からそうおっしゃったのでしょうが、「あなたみたいな愚かな人に出遇ったのは初めてですよ」と言われ腹が立ったということは、結局、仏さまの教えに身を据え、聞法を重ねてきたから、愚かな自分に出遇えたはずなのです。しかし、出遇えた仏法の方が大事だったのに、いつの間にか、その出遇えた仏法よりも、仏法に出遇えたという自分の方が持ち上がっているわけです。これが私たちの執着心ではないですか。どこまでいっても自分がかわいいと思う心、煩悩です。つまり、自分に気づかせてくださった仏法のおかげなのに、いつの間にか仏法より、出遇えたという自分を肯定したり、愚かだと気づけた自分が前に出てしまうのです。その方は私に「大事なことに気づけましたね」と私が言うだろうと思ったのです。そう言われると思ったら、当てが外れて「あんたみたいな愚かな人に出遇ったのは初めてです」と言われたら腹が立ったということは、結局ほめてもらいたい自分がちゃんといるということです。大事なことに出遇っても、そういう自分を私たちは持っているわけです。けなされれば腹が立つし、嘘でもほめられれば喜びます。私たちは、自己肯定の世界に自分を立てていたいという思いを持って生きていますから、その思いはなかなか厄介で、お念仏を称えたぐらいで、どうにかなるような生易しいものではないのです。自分で考えても駄目です、考えていること全体が自分の思い(自我)なのですから。

念仏申す大切さに目覚めることが信心

仏さまの前に身を据えて自分の姿に出遇わせていただく、気づかせてもらうという場にわが身を運び続けること、そういったものの大切さに出遇うことを「信心」と言うのです。その聞法の場において、仏さまが大切であることを、私に先立って教えてくださった先達の喜び、先達のいただいたお念仏の声に耳を聞かせていただく。聞其名号(もんごみょうごう)です。その名のいわれを聞かせていただくということが、私たちにとってのお念仏なのです。聞いて分かるというのではないのです。聞くことの大切さが分かってくることが信心なのです。

私たちは、お念仏を称えたら信心を得られる、仏法を聞いたらさとれるだろうと思ってしまいますが、そうではなくて、聞いていかなければならない自分だったと、聞くことの大切さに気づいたということを、親鸞聖人はご信心と呼んでいるわけです。聞くとは信心をあらわす実りであり、信とは聞であると親鸞聖人は仰っています。信心とは、念仏もうさんとおもいたつ心がおこるということですから、念仏申すことの大切さに目覚める心が信心なのです。お念仏する姿は、仏さまのご本願をいただいて、本願の尊さをほめたたえている先生のお念仏の姿に出遇うことこそが、私たちにとってのお念仏の原点となるわけです。こういったものに出遇いますと、自分もお念仏する身にさせていただきたいという心が自ずと起こってくる。そしてそれが連綿と続いていって、お念仏の教えが繋がっていくのが、法然聖人や親鸞聖人がいただかれたお念仏のいわれではないかと思います。

ところが我々はお念仏という行為を聞くと、どうしてもその行為に囚われるから、どういう心持ちでお念仏したら良いのでしょうかと聞くわけです。おならと一緒だと言ったら、怒ったり、疑問に思ったりするわけです。おならもお念仏も出るものであって、自分の力を込めて努力してするものではないのです。自分が力を込めてしたお念仏なら、他人からけなされれば腹が立ちます。それは自分が称えた念仏に執着するからです。お念仏申す生活をしても、人並みに自分の都合の悪いことや悲しいこと、自分が否定されるような出来事が起こってくるでしょう。自分にとって都合の悪いこと、悲しいことが次々と起こるけれども、起こってくること全体を引き受けてくださって、私たちをいつも仏さまの願いに帰してくださる仏さまの大悲の世界がちゃんと私たちを支えてくださっているのだ、その事実に出遇いますと、こちらの願いが満足する方向ではなく、存在を無条件に肯定してくださる大きな世界に自分の居場所を見出すことができるのです。これが、親鸞聖人がいただいた本願念仏の救いということだと思います。

ありがとうございました。

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