あなかしこ 第59号

ともに歌うということ ─音楽法要に思う─

河村和也 (釋和誠 50歳)

高校時代の友人のひとりは、石川県の松任(現在の白山市)の人と結婚してそこに移り住んだ。その友人に久しぶりに会ったのは、別の友人と連れ立って金沢のあたりを旅したときのことだった。そこで生まれた坊やがそろそろ中学受験などと言っていたから、彼女ももうすっかり土地の人となっていた頃である。

彼女はそのとき、こちらでは法事のたびにみんなで歌を歌うので最初はずいぶん驚いたものだと話してくれた。せっかく松任を訪ねるのであれば暁烏敏師生誕の寺である明達寺を案内してくれなどと頼んだ私に、話を合わせようとしてくれたのだろう。何気ないことばではあったが、それはたいへん印象深いものであった。

ご承知の通り、石川県は真宗の盛んな土地柄である。友人の結婚した相手もお東のご門徒で、ご実家には大きな金仏壇があるのだという。法事のときには、そのお内仏に手を合わせ、みんなで声を合わせてお勤めをする。最初には真宗宗歌を、最後には恩徳讃を斉唱するのであろう。東京の下町に生まれ育った彼女には真宗との縁がなく、法事といえばお坊さんがお経をあげてくださるのを黙って聞いているというものだった。みんなでお勤めをすることにも驚いたであろうが、歌を歌うことに大きな違和感を覚えたことは想像に難くない。

仏教と音楽の関係は深く、その歴史も長い。音楽というものを広くとらえれば、雅楽・声明・御詠歌といった伝統的なものも含まれる。つまり、私たちがお勤めする正信偈や念仏和讃もそのひとつなのである。しかし、ここではいわゆる五線譜に記される音楽のことを考えてみたい。明治以降、西洋 から移入された音楽が急速に普及するのに呼応し、真宗を含む仏教各派が仏教讃歌の制作に乗り出したことはよく知られている。私たちが歌う真宗宗歌も恩徳讃も、その延長線上に位置付けられるものである。真宗宗歌が作られたのは一九二三(大正一二)年、恩徳讃(正式には『恩徳讃Ⅱ』)が作曲されたのは一九五二(昭和二七)年のことであった。

昨年(二〇一五年)の秋、報恩講の初日に京都を訪れる縁をいただいた私は、家人とともに本山をおまいりし、音楽法要を初めてお勤めする機会を得た。この法要の次第は宗祖の七百五十回御遠忌を縁として整えられたもので、正信偈は一九七三(昭和四八)年に真宗教団連合の共通勤行として制定された「和訳正信偈」を用いるが、それ以外は新たに作曲されたものである。

慣れないお勤めではあったが、伴奏であるはずのオルガンの音に導かれ、配られた冊子の楽譜を頼りに歌ううちに、次第にこころが揺さぶられてくることに気がついた。お勤めの最後の回向「願以此功徳/平等施一切/同発菩提心/往生安楽国」は、

願わくは 一切世界の人々と
この出会いの喜びを
みな平等に分かち合い
ともに仏(ほとけ)になる心 発(おこ)して
阿弥陀みほとけの 安楽国(あんらっこく)に生(あ)れ
生きてはたらく身とならん

と訳されているが、これを歌い終えて顔を上げたとき、御影堂の中が明るく輝いたような思いがして、私は実はひそかに落涙してしまったのである。それは、音楽の美しさとともに、やさしく言いかえられたことばの持つ説得力に圧倒された瞬間であった。

配られた冊子には「同朋唱和により、全国各地でこの音楽法要による法要が勤められることを願っております」とある。音楽法要は年に一度のイベントといった性質のものではなく、お聖教のことばを口語化し、新しい音楽とともに伝え広めるための取り組みなのだ。

真宗門徒は、経文や偈文をわけもわからぬままにありがたがるという生き方をしてこなかった。ともに歌い、ともにお勤めすることによって、長い歴史の中を私たちの身にまで伝えられてきた教えをともにいただいてきたのである。私たちのお寺で音楽法要を実現するには、その前に解決しなければ ならない問題がいくつもあるだろうが、真宗門徒の伝統を未来に引き継ぐためにもその一歩を踏み出してみたいと思わずにいられない。

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