あなかしこ 第59号

門徒随想

友人である同世代の浄土真宗本願寺派寺院の住職が、自坊の報恩講を前にフェイスブックにこんな投稿をしていた。

「報恩講って、住職には、この一年間の通信簿みたいな気がする」

彼の言わんとするところは、門徒さんがこの日、どれくらいお参りに来ていただけるかということだろうか。確かに、一年を通じて住職の姿を門徒は見ているに違いない。

では、門徒にとって報恩講とは何か。

今年の蓮光寺の報恩講は、平日と祝日の二日間だった。直近になって一日目が平日だということに気づいたが、「門徒倶楽部は集合!」の本多住職からのメールに、仕事をさぼることにした。お寺に着くと、坊守さんたちがお斎の準備に励んでおられ、すでに報恩講は始まっていた。門徒倶楽部もパンフレットを折ったり、カレンダーを袋につめたり。

寒い日だったが、多くの人が見えられた。

地方出身の私にとって東京は十三年間住んでも未だ仮の都だが、蓮光寺にいる時は見知った門徒さんや住職さん方の顔を見ると、親戚に会ったようなほっとした気分になるから不思議なものだ。一日目の大逮夜の勤行、本多住職の法話、やなせななさんの法話コンサート、持ち帰りお弁当。二日目の晨朝の勤行、門徒さんの感話、日中(ご満座)の勤行、真城善麿先生の法話、御礼言上、お斎。

親鸞聖人の教えに、ひたすら向き合う濃密な時間の中、あれはいつの時間だったろうか。本堂に坐っている時、一瞬、ふっと思った。ここにいる人は皆、死や生きる上での様々な悲しみや苦しみを縁にここにいるのだ。人間は生きている以上、それから離れることはできない。お寺は、そこに向き合う場である。ならば、お寺と私は即一ではないか。と思ったら、本堂奥の御絵伝の掛け軸に描かれた人々の姿が急に迫って、動いて見えた。絵伝は過去ではなく、今だった。

報恩講は私のためにあったのだなと思った。

上野ちひろ
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