あなかしこ 第59号

あとがき

2016年最初の「あなかしこ」の59号は如何でしたか?  今回の投稿は、報恩講に関して門徒メンバーそれぞれの受け止め方に応じた「感話」といった内容でした▼河村氏の本山報恩講での感想、それも音楽法要に参列しての思いは、今後の真宗寺院にとっても新たな視座を問題提起されていると思います。正信偈の唱和も歴史があり重要な儀式ではありますが、現代人にとって意味が分かり易い現代語での唱和も、教えを伝えていくという観点からは今後は必要な方法かもしれません。まずは蓮光寺で試行できるか住職とも要相談ですが…▼次に白山勝久先生の法話は、七百五十回御遠 忌のテーマに「一人に立つ」という副題でしたが、先生の寺院活動に根ざした教えに対する了解、過去の辛い時期に幼稚園児らの何気ない仕草さから『ここに親鸞聖人がいるのだ、生きていけるかな?』と思った体験を通じたお話や人生の真の安全基地のお話し、最後に『私の思いで何かを頼りにするのではなく、頼りとすべき中を生きさせていただいている。それが一人に立つ、一人の自覚なのではないでしょうか』などのお言葉に非常に感銘を受け、人生を貫くよりどころを改めて深く考えさせられました▼最後に上野さんの門徒随想では、知人の他寺ご住職の言葉「報恩講って、住職には、この一年間の通信簿みたいな気がする」とは、どきっとされますね。確かにそれまでの一年間の活動の在り方が門徒さん方にどう受け止められていたかの総決算かもしれません。また『御絵伝の掛け軸に描かれた 人々の姿が急に迫って、動いて見えた。絵伝は過去ではなく、今だった。報恩講は私のためにあったのだなと思った』も白山先生の法話に繋がるすばらしい感話ですね。報恩講とはそれほどまでに、真宗門徒が自分を振り返るきっかけを作って下さる大切な法要なのですから。合掌〈道〉

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