あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

福田先生のご法話をうかがって

河村和也 (釋和誠 49歳〉

だいたいが気の散りやすい性質なのである。法話をうかがいながら「と言うことは…」と考えごとをしたり、ずいぶんあとになって「そう言えば…」と振り返ったりすることが多い。だから、法話をいただいた直後に感想を求められると、たいがいまとまりのないことしか言えないのである。

ただ、最近になって強く思うことは、法話というものは決して孤立して存在するものではなく、法話をいただくことによって自分の日常が照らし出され、そのことを通じて思ったり考えたりする機縁をいただくことこそが大切なのではないだろうかということだ。

かつて「教師生活25年」というセリフがたびたび出てくる漫画があったが、私もそのことばを口にできるほどに日々を過ごしてきてしまった。そんな私は、福田先生のご法話をどのように聞き何を考えたのか。せっかくの機会をいただいたので、日常のことと重ね合わせながら振り返ってみたい。

通信簿のない世界

小学校の頃に『先生のつうしんぼ』という本を読んだ。映画化もされているので、あるいは映画を見たのかも知れない。物語の展開はすっかり忘れてしまったが、子どもたちが先生の通信簿をつけるという設定は衝撃的だった。

その衝撃から40年が経とうとしているが、今や、学生が「授業改善アンケート」の名のもとに教員を評価する時代である。春に始まった学期が終わる七月は、このアンケートの時期に当たり、何となく気が重い。評価されるとなれば、悪く言われたくないばかりか、よく言われたいのである。いずれにしても、自分がどのような授業をしてきたかということは、すっかりどこかに置いてきてしまった話である。

一方、どんなに「よい」授業をしたと思っていても、このアンケートを悪用し、あることないことを書き散らしては教員をおとしめようとする学生もいないわけではない。詳細を記すのは控えるが、私もその被害に遭いかけたことがある。学生からの評価が教員の採用や昇進の資料になる例もあると聞けば、その意味でも見過ごしておくわけにいかない問題ではある。

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福田先生のご法話の中に、手厳しい師や自分のことを本気で批判し注意してくれる人こそが「とも」であるとあった。その「師」ということばをうかがいながら思ったのは、「通信簿」や「授業アンケート」のことだった。

門徒倶楽部に通い始めたばかりの頃、「善人」であることを理由に批判されどうにも釈然としなかった記憶があるが、そこから始まるさまざまのやりとりを通じて私の聞法の歩みが始まったのだとすれば、得難い人間関係を得たものだと思う。この人間関係において大切なことは、すべての者が教えの前に等しい立場であることだろう。通信簿をつける側とつけられる側、評価する側とされる側、足を引っ張る側と引っ張られる側という対立は、ここには存在しない。仏法の前では、師もまた、教えを聞く「とも」なのである。このような、いわば絶対的な「安心感」が担保されていることは、教えの場には不可欠である。

そもそも、ここまで聞けたから60点、感想が長く書けたから80点というような「評価」をすること自体が、聞法の場にはあり得ないことである。聞法について、ときに経験の多さを自慢し、ときに経験の少なさを卑下する私たちであればこそ、福田先生が引用された「仏法を聞いていくということは、どこまでもどうにもならない自分に出遇うということを聞いていくこと」ということばが響いてくる。

親の願い、子の思い

私の仲間に、昨今政府が主導しようとしている「グローバル人材の育成」をはじめとする英語教育政策にきわめて批判的な論客がいる。その論旨は明快で、この政策に該当するのは生徒・学生の約1割に過ぎないのだから国民全体に責任を負う公教育にはなじまないとの主張は、まったく正当なものだと思う。

ところが先日、その仲間のご子息は某大学の「グローバル人材」を育成するコースに在籍中で、間もなく英語圏に留学する予定なのだと人づてに聞いた。このブラックユーモアのような展開をどうとらえればよいのだろう。私の思考はまったくついて行くことができないのだが、自分の子どもが「約1割」に入っていればよいという話だとも思えない(あるいは思いたくない)し、親の願うように子どもは育たないという一例として受け止めてみようかとも考えている。

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福田先生がお母さまとの関わりについて触れられ、「ずっと母親に背いて生きている自分がいるなということをわかった時に、初めて母親に出遇った気がしました」とおっしゃったくだりは、ご法話をうかがいながらひそかに落涙した箇所だった。

今回、その部分を読み返して思い出したのは、先に述べた仲間のことだった。先生がお母さまの願いに背いて生きてきたとおっしゃるのを、どんな大学に行くかとか、どこで学ぶかとか、どんな仕事に就くかとかいったことに矮小化するつもりはまったくないのだが、親の思いは子に届かないという一点において、つい思い出してしまったのである。

私自身、亡くなった父の願いをかなえるつもりで教員という職業を選んだものの、ある頃から教員としての自分にずっと違和感を覚え続けている。職場を移ってみたり、対象となる生徒や学生を変えてみたりしたが、本質的な解決にはならなかった。今となっては父の願いを確かめることもかなわず、それに背いているかどうかさえもわからないのだが、父が生きていたら、今の私を見て、せっかく教員になっておきながら何をしているのだと思っただろうか。あるいは、どんな形であれ、学び続けることを仕事としたことを喜んでくれるだろうか。ただひとつ言えることは、教員として人の目に映る自分の姿を受け入れられないという苦しみこそが私の抱える違和感の根源であり、この違和感がなければ、私はきっとお寺に足を運ぶことはなかったであろうということだ。

さて、私はどうして福田先生がお母さまとの関わりを話されたときに涙を流したのだろう。振り返ってみると、自分のありようを父や母に対して申し訳なく思う気持ちと、そんな自分であっても無条件に包み込んでくれるものがあることをありがたく思う気持ちとが、先生のことばがきっかけとなって重なり合ったからではないかと思うのだ。どうしようもないままに生きる勇気は、この私の中にもきっと存在する。そんなことに気付かされたのである。

共通の思い違い

家族を同朋として見出していけるかどうかが大切であるとのお話は、もっとも重く響いたものであった。先生は、感動したことは伝えずにはいられないという思いが念仏を相続させてきたということも最後におっしゃっているが、私がお寺でうかがったことを家族に伝えることができていたのかということをかえりみるとき、家族であるがゆえの気恥ずかしさとか遠慮とか思い込みのようなものが邪魔をしていたように思う。その意味では、今、同じご法話をうかがって感想を言い合うことのできる家人を得たことは、私にとって大きな幸いと言える。

実は、福田先生のご法話をうかがいながら、最後の方で大きな思い違いをしたところがあった。それは、先生のお母さまが倒れられたことをめぐって、奥さまが「私も一緒やで」とおっしゃったという部分である。先生のご夫妻の会話を再現すれば以下のようになる。

「お前の母親が倒れた時、俺は対岸の火事やったけれども、今日の俺は違う思いでいる。自分の母親やもん。どうしたらいいかわからん。」
「私も一緒やで」

私は直感的に、「どうしたらいいかわからん」ことが「私も一緒や」と奥さまがおっしゃったのだと思った。つまりは、いわゆる「いい話」と受け止めたのである。しかし、その受け止めは、奥さまが続けて「悲しいね」とおっしゃったことが明かされることにより、まったくの思い違いであったと気付かされた。

まず、単なるきれいごとではない人間の本当の思いが明かされ、さらに、その思いをも超えたことばが語られるとき、そこにこそ如来がはたらいているのである。先生は特に意図されたものではなかったと思うが、私は、安易な思い違いをしたことによって、かえって見事にひっくり返されることとなった。そして、夫婦の思いがけないやりとりの中に真実を見いだすことの困難と、その不思議を印象深く胸に刻んだのである。

実を言うと、私も家人も、この部分ではまったく同じ「思い違い」をしていた。ご法話をうかがった帰り道に感想を言い合えるのは、実際、大きな幸いである。今は、聞法のあゆみを次の広がりへとつなげていくことができればと願っている。

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