あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

「終活」と仏教

本多雅人(釋徹照) 〈蓮光寺住職 54歳〉

「終活」がブームになっています。終活とは、辞書を見ると「残りの人生をよりよく生きるため、葬儀や墓、遺言や遺産相続などを元気なうちに考えて準備する活動」とあります。「終活」はまったく無意味とは言いませんが、人生の根本解決にはならないし、経済至上主義の一つの表れのように感じる部分が多々あります。そんなことを思っている時、たまたま『文藝春秋』から「終活」に関する取材を受けました。『文藝春秋』は昨今の「終活」ブームに疑問を持っており、宗教者から見た「終活」の問題点を語ってほしいという依頼でした。宗教者のコメントを求めることが少なくなった昨今、私を含め2人の仏教者にコメントを求めてきた『文藝春秋』に敬意を表したいと思います。ただ紙面のスペースの都合上、大切な点をすべて掲載してもらうことはできなかったので、まず『文藝春秋』8月号の私へのインタビュー記事を掲載し、それに少しばかり補足をしてみたいと思います。

『文藝春秋』8月号(2014年7月10日発行)「満員御礼「終活セミナー」に群がる商魂」
加福文 ジャーナリスト
(330〜337頁)

(終活セミナーの)違和感はどこから来るのか。人の生死に日々深くかかわる二人の僧侶に、終活ブームについての意見を聞いた。(335頁)

(中略)

生まれた時から時から終活は始まる(336〜337頁)

東京都葛飾区亀有の真宗大谷派蓮光寺の本多雅人住職(五十四歳)は、念仏者として、「終活」をどう見ているのか。

「現代社会は『死』を排除し、『生』のみを見てきました。死に目を向け出したように見える『終活』は、それなりの役割を果たしています。ただ、それが本当に死を受け止めての活動かどうかはいささか疑問です。終活セミナーやフェアの対象者、参加者の顔ぶれは中高年ばかりですが人間は生まれた時から死が約束され、いつ死がくるかわからない。仏教の視座から言えば、年齢や状況に関係なく、生まれた時から『終活』は始まっているのです」

では仏教の考える死への準備とは何か。

「いかに準備しようとも死の前には何も間に合いません。私たちは生老病死という苦悩を抱え、思い通りにならないいのちを生きているのです。だからこそ仏教は《なぜ生きるのか》《死とは何か》《自分とは何か》という人間存在を問い深めていく。決して答えを与えるものではない。むしろ、いつ死んでもこれでよしという世界をいかに持てるかを問います。そのために死から生を見る眼を持たねばならないのです。死という人間の思いがまったく通じないところから、人生を受け止め直せと言うのが仏教の教えです。明治の偉大な念仏者の清沢満之は、『生のみが我等にあらず。死も亦我等なり。我等は生死を並有するものなり』と言いました。それは『死』もいのちの営みとして『生』の内に入れ、むしろ死から生を見る眼を持てという視点です」

それは一見、「死を考えることを通じて今をよりよく生きる」ことを提唱する終活と似ているように見える。しかし、全く違うものだと力説する。

「終活の主な内容は相続や葬儀、お墓など対策対応の話がほとんど。これは『生』の延長線上からの視点にすぎません。『よりよく生きる』などの言葉もやはり自分の思い描いたこと、思い通りになることが幸せだというのが前提にあるのではないでしょうか。しかし自分の思いを満たすだけでは、本当に人生に満足することはないと私は思います」

では本当に必要な「終活」とは何か。本多住職は話す。

「生死は条件を満たしたり、対策対応で解決する問題ではありません。生きることは、思い通りにならない現実、不条理なことに遇うことです。思い通りにならないということが実は生きるということなのです。仏教は生と死を分けず、生死(しょうじ)一如と教えます。死んでいけると思えた時、実は本当に今を生きられるようになる。この私の存在の尊さが何の条件も変わらないままに、回復されるのです。だから仏教が問いかけていることは、誰もが、どんな状況、どんな自分であろうと、この自分を見捨てず受け止めていきたいという深い願いに目覚めることです。自分の思いを超えた自分が深く頷けるものに誰もが出遇いたいのです」

繰り返しますが「終活」はまったく無意味とは言いません。しかし、すべて人間の思い(自我)の延長上、生の延長上の発想にすぎないのです。人間の自我意識が人間を苦しめているというのが仏教の卓見です。その自我を問うことなく、思い通りにしたいという方向性では問題が根本的に解決することはないのです。むしろ自我に覆われて、本当の願いが見えなくなっているのが現代状況ではないでしょうか。宗教的真実にふれるということは、苦悩するなかに自我よりもっと深いところで脈々とはたらいている「私は私でありたい」という根源的願いを見出すことにあります。人間の思いが間に合わない時にはじめて仏教の教えが身に響いてくるのです。その時、「今、ここに」ある自分の人生をまるごと頷かせていただく機縁となるのです。そうでないと人は本当に安心し、満足することはできないのではないでしょうか。

現代は、対策対応ばかりで「今」を生きていない、過去を受け止め、未来にも通じた「今」を頷くことができないのではないでしょうか。その根は私たちの思いにあるのです。それは「今、ここにある自分」に無条件に満足することだと言ってもいいでしょう。ですから、どこまでも事実を受け止められず思いに沈む迷い深き私をじっと見つめる眼を持っているかどうかでしょう。その眼を「如来」と言うのです。本当でないものを本当としてしまう迷い深き私そのものが問われていく歩みがそのまま人生道、仏道なのです。自分は愚かだったと自覚するところに、新しい生き方がはじまるのです。それは、迷いのままに如来の眼から人生を見直す視座をいただくことなのです。それを「往生」の生活というのです。生老病死に翻弄されながらも、それが根源的願いに目覚める機縁となって、人生の深い味わいとなって行く道に立つことが「今を生きる」ということではないでしょうか。

もう一点気になることは、マニュアル化という問題がさらに私たちを非人間化していくのです。終活もマニュアル化の傾向にあるならば問題だと言わざるを得ません。

現代は巨大な経済システムのなかに人間が取り込まれ、あらゆるものがマニュアル化、画一化した社会です。つまり「答え」が独り歩きした社会なのです。関係性を大切にするよりも、独り歩きした答えに乗っかって生きようとする、あるいは生きざるを得ないのが現代に生きる私たちのすがたではないでしょうか。その「答え」の中身は、一人ひとりの尊さをあたえるものではなく、経済政策に利用される人間と化している場合が少なくありません。どこかの大臣が「最後は金目でしょ?」と発言したのは記憶に新しいことですが、日常生活でもトラブルになれば最後は金で解決するしかないという考えはどこかにあるでしょう。お金は大切ですが、お金がすべてにおいて優先されると人間そのものの問題と向かい合うことができなくなるのではないでしょうか。人間の問題はお金で解決することはできないどころか、お金によって人間が益々見えなくなってしまうのです。

そういう状況のなかで、苦しみや悲しみを避ける傾向が益々強まり、私たちは困ったことが起きたら専門分野の人に全部委ねるようになってしまったのです。つまり暮らしそのものがすべて財布の開け閉めだけで決まっていくのです。本来、生きていく上で生じる困難や苦しみは、自己を問い直す貴重な機縁なのにマニュアル化されると、その機縁を生かせず、すでに用意された『答え』に合わせて生きざるを得なくなるのです。それは、苦悩を担っていく力を奪ってしまうばかりか、自分が自分でなくなっていくだけではないでしょうか。終活もこの流れにあるとするなら、同じことになりますが果たしてどうでしょうか。その一点をしっかり見据えることだと思います。

私そのものが問われることを通して、自我の闇が破られて、存在に本当にうなずくところに仏教が開いた人間像があります。自分ではない感覚を破って、そのままの自分に帰っていく、つまり、自体満足している自分と出遇って生きていけることが救いではないでしょうか。いつ死が訪れても、これが私の尊い一生であったと言える「今」を生きることに目が開かれていくかどうかが仏教における終活の内容と言っていいでしょう。

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