あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

成人の日法話会 「語らいの時間」より 
(波佐谷見正先生&住職)

1月13日(月)午後2時より、蓮光寺本堂において新春恒例「成人の日法話会」が開催されました。

今回のご講師には、波佐谷見正先生(北海道厚岸郡・正念寺住職、昆布漁漁師、58歳)をお迎えし、「人に成るということ ─自分を見捨てないで生きる道─」というテーマでご法話を頂戴しました。

ご法話の内容は、蓮光寺情報紙『ふれあい』に掲載されています。ここでは、ご法話のあとの、波佐谷先生と蓮光寺住職の「語らいの時間」から抜粋・掲載いたします。

「語らいの時間」より 波佐谷先生と住職の対談(抜粋)

父の最期の言葉

【住職】  「84年生きてきて何もいいことがなかった。僧侶になって何もいいことがなかった」という波佐谷先生のお父さまの最期の言葉が、先生にとってのお念仏だといただきましたが、もう少しお話しいただけますか。

【波佐谷先生】  月並みな言い方ですけども、僧侶になってよかったなということを思います。自身がいろんな研修会とか学習会に出ていた時期があります。学びを求めてというよりも、居場所を求めていたのかなということを、今思います。どこに身を据えたらいいのかと。

私は運送会社で働いて給料をたくさんもらって、生活は成り立っていたわけです。しかし思いは、またお寺に戻りたいって気持ちがすごくあったんですよ。こんな所じゃ生きていけないって。

帰ってみたら、よく親が仕送りをしてくれていたなぁという現実を、帰ってみて初めて分かるわけですよね。父がたおれて、お寺、ご門徒さん、軒数でいえば40軒の中で、仕送りしてきた10万の収入があるかないかの中で、よくまあぼくは「『真宗聖典』を買うから金をくれ」「仏書を買うから金をくれ」って言ったものだと。送ってもらった金は、全部必ずしも仏書ばかりではなく、飲み屋さんと焼き肉屋さんにも使っていたのです。お金は受け取っていたけれども、帰ってきてみて、いろんな思いの中で仕送りしてくれていたんだなってことは、一つ思ったことであり現実ですよね。

ぼくは京都で結婚していましたので、子供が2人いましたし、1人、2人、祖父ちゃん、祖母ちゃん、障害を持った兄貴、家族が増えていく中で、どうやって生きていくか、どう生活していくかってことのほうが優先したのは事実です。

でもその中でぼくが出遇った、師だと思う方ですけども、漁師をしながら、いろんなことをしながらでもそこに仏道があるではないかと。どこかに歩む道が別にあって、ということじゃない。生活の真っただ中に生きていく道があるじゃないかと。それが浄土真宗だと言われたことに感銘を受けたことは事実です。

自分のイメージの中で生活してきて、こうあらねばならないと思っていたことがですね、そういう意味では、なりふりかまわずですね。水産会社にも勤めて、加工場のお母さんたちとか、冷凍庫に入りながら、アルバイトですども。

ぼくはいまだに仕事はあると思っているんですよ。ハローワークに行ったら仕事はないかもしらんけど、それは選ぶからです。選ぶことが悪いんじゃないです。仕事はあるんです、という感覚はぼくにはあるんです。だからといって責めるものではないですけども。

ぼくはボランティアっていう言葉はあまり好きじゃないんですよね。報酬がある仕事を求めます。嫌らしい言い方ですけど、変に受け取られては(笑)

それは生活のためですけども、その中で、生活のただ中に道ありと、教えてくれた、その方のお言葉で今に至っているかなってことは思いますね。

ただ、その道に身を据えたと同時に、しんどいなと思うようになりました。それは何かというと、自分と向かい合っていかなきゃならんということを教えていただいたからですよ。どう生きるかではなくて、どう暮らすか。大事なことですけども、ピクニックではなくて。それはやっぱりその道に身を据えてみて学ぶということのしんどさ。人と向かい合うことのしんどさ。それは取りも直さず、自分の家族と身近なところが一つの課題になっていますもんね。

そういう意味で、「真宗の坊主をやっていて何もいいことがなかった」という父の最期の言葉も、愚痴と恨みです。

ぼくの友人のお父さんは「俺は縁があって北海道の炭坑に来て、寺の小坊主になって、坊さんになって、真宗の坊主でよかった」と言って亡くなっていったんです。両極ですよね。

ぼくの父は愚痴と恨みです。でもぼくの友の父親は、「俺は坊主になってよかった。念仏の教えでよかった」とこれが最期の言葉です。

でも彼も悩むんです。そんな生き方を俺ができるだろうか。

ぼくも悩むんです。そんな生き方でいいのか。

でも、なぜか彼とは泣けたんです。それはたぶん、問いが同じだからだな、問いを共有できたんだなということを思います。

どういう死に方か生き方かということではなくて、残された私たちがその姿をもって、ナンマンダブツと。もっといえば、亡き人をどう受け止めていけるかということが真宗の仏事ですよね。

通夜・葬儀というのは、そこに仏法がなかったら、住職の法話がなかったら、法に触れる御縁がなかったら、仏事ではありません。世の中の習いです。

真宗の仏事、形はない。でも真宗の仏事といえるところには、どうかお念仏申してください、仏法聴聞してください、聞いてください。聞いたらどうなりますか。分かりません。でも、聞き続けていけるかもしれませんね。聞いてどうかではなくて、聞き続けていける。そういうことを今私は教えてもらっていたんです。

そういう意味で坊さんになってよかったかな。たまたまそれは、家が、親が僧侶をしていたっていうことですけど、それは、帰敬式を受ける、得度式を受式する、すべて共通項のように思いますね。

人・言葉との出遇い

【住職】  質問のなかにありましたが、苦しみや悩みは肥やしにならないということは、どういうことか。これはやはり引っ掛かると思ったのですが、苦しみがあると聞くとそれによって豊かになれるのだという公式がやはりあるのだと思うのですが、それについてどうでしょうか。

【波佐谷先生】  苦しみや悩みが肥やしにならないとぼくが言ったことは確かですね。でも、苦しみ悩みが肥やしになるんですよ。つまり、苦しみ悩みを取り除いたら、そういうつらいことや悲しいことがなかったら幸せな生活になる。じゃあ、幸せな生活って一体何なんだっていうこと。

苦しくても悲しくてもつらくても、それが、あえていえば目的がはっきりしていれば苦労できるんですよね、私たちは。決して、苦しみや悩み、嫌な存在じゃないわけですよ。嫌でもつらくても悲しくても、やってきたよねってことは、みなさん方はもう、ひとりひとり味わっておられるんじゃないでしょうかね。

ただ、そういう意味で、肥やしにならないっていうのは、ぼくの中では肥やしになるんです。その苦しみ悩みを、どうしっかり向かい合っていけるかということの場を賜らない限りは、その苦しみ悲しみつらさは、邪魔になるだけですよ。どれだけ頭で分かったとしても。

という思いがあっての発言だったと自分では思っています。

【住職】  苦しみや悩みを、自分の思いの中に閉じ込めては力にならない、ということですね。何か執着している自分が解放されるような時と場をいただくことだと思います。時と場という言葉がとても印象的で、お経も結局、時と場が開かれて、聞こえた人が書いたのですよね。聞こえた人が書いたから「如是我聞」──聞こえてきたという意味です。波佐谷先生を根本的にひっくり返したものというのは、結局何だったのでしょうか。

【波佐谷先生】  強いて表現させてもらうと、一つは学びということもありますけれども、ぼくはやっぱりたまたまですけど、そういう歩みを先にされていた方との出遇いだったかもしれません。あえていえば人との出遇い、言葉との出遇いっていうことですよね。

「風の音を聞け。海の音を聞け」(祖父江文宏)っていうこういう言葉に出遇うのも。児童養護福祉施設で頑張っている方とたまたま出遇ったんですけど、偶然ですけどそのたまたまが自分の「変化した!」って急に変わったことじゃなくて、分かってもらえると思うんですけど、遅々として変化は遅いかもしれないけれども、でも、そうだよな、そういう人たちがいるよな、そういう考え方もあるよなっていうことを通しながら、親鸞聖人の言葉に触れていく、仏教の言葉に触れていくということの作業の繰り返しだったように思いますね。

先ほど、根性、性根とかいろんな話もありましたけども、本質は変わらないのです。

よくご門徒さんに「コロッと死にたい人」って言うことがあるんです。全員手を挙げるんですよ。苦しまないで楽して迷惑かけないでコロッと死にたい。みなさんどうですか。そう思われる方は手を挙げて。挙げた方々はみな、よくたかり(貪欲)ですよね。こういう言い方をご門徒さんにするんですよ。お母さんたち、あなた、お念仏はとか、親鸞聖人はって言っているけども、これ、一言で言ったら、煩悩具足の凡夫とか言葉を聞いているけども、要はよくたかりってことでしょ。あれだけ、どんな死に方をしたとしてもといっても、でもみんなの根性、根っこにあるのは、コロッと死にたいってすぐ反発するんですよね。その中身は別にしてもね、それほど私たちが、瞋り、腹立ち、嫉む。根っこにあるものは。煩悩が百八つあるわけじゃないですからね。そういう意味で、根性ですよ。性根です。根っこ。私たちひとりひとりが抱えているものは、全くみな同じですよ。それは欲深いってことですよ。

だから、欲は意欲でもありますしね。意欲がなかったら生きていけないってこともあるし。でもそれがいかにこっちを振り回すかっていうね。そういうことを含めての性根ですよね。本質は変わらないってのは。そういうことで表現させてもらったんですね。

自覚

【住職】  祖父江さんの言葉に響いたということは先ほどの、年をとったら何もいいことがないとか、不安とか孤独であるとか、でもそれは波佐谷先生の受け止めから言えば、それは本当はつながって生きてきたことの証しだとおっしゃいました。理論的には全く相矛盾することですよね。結局どこかで私たちは分かっていて、性根はコロッと死にたいのです。けれどもそうならないとか、そうじゃないものが欲しいとか、そういう同時にはたらいているものが恐らくあって、それは自分では分からないし、表にも出てこないのだけれども、ずっとそういうものが寄り添ってきたということは事実ではないかと思います。そうでないと、思いもかけずその言葉に急に反応するということはないですね。ですから、自覚という言葉を使われているのではないかと私は思っています。自覚と言う言葉の意味合いについてはいかがでしょうか。

【波佐谷先生】  自覚っていうと、さとりとかいろんな受け止めがありますけど、素直に、寝ていたものが目を覚ますというようなところ。稚拙な、幼稚なところですけど。それは自分自身に気がつかさせてもらうという背景もあったかもしれませんけども、とともに、表現的には、これはあまり言いたくないですけど、目に見えないはたらきっていうかね、そういう一つの歴史の中に育まれてきたということも、自覚と。

自分で自分のことを考え悩み、自分で解決しようと思ったら、それは、あとはもう、推して知るべしですよね、結論は。そういう限界。てことは、やっぱり先に学んだ方、歩んだ方に出遇わせてもらいながら、確かめさせてもらう、気づかさせてもらう、ということがなかったら、基本的には私たちは自力から一歩も出られませんので、自力という言葉を使えばね、自分の世界で生きるものですからどこまでも自分の世界で悩み、自分の世界に問題を抱え、自分で解決しようとし、自分で結論を出していく。

その結論は推して知るべしですよ。自分で自分を傷つけ、自分で自分をけがし、自分で自分を嫌っていく。阿弥陀さんは私たちをどこまでも選ばず嫌わず見捨てず、そのお心と触れた私に起こる心は何か、なぜ起こるからは何ともコメントしがたいものがありますけれども、私が私を選ばない、嫌わないということ。

どうして、自分の人生を恨むのか。どうして自分の人生をけがすのか。何で生まれてこなければよかった。生きてこなければよかった。あんな親に、こんな親に。詮なきことにどこで気づかせてもらうか、という意味で、ぼくは、自覚、自らに目覚めていくというところでしか、受け止めるしかないですよね。

でも、仏教の基本はそこを抜きにしてしまったら、難しくなっちゃうんですよ。そういうことに、目覚めさせてもらった時、気づかせてもらった時に、気づくとともに、ずっと案じてくれていた、先人の方でいえば、如来さまとか親鸞さまとか、報恩講さまとか、そういう意味で、自覚と。

「三帰依文」も自覚の言葉ですよね。そういうことをいただいています。

お前は人間か? 人間って何?

【住職】  先生は蓮光寺の掲示板の言葉「人として生まれた悲しみを知らないものは、人として生まれた喜びを知らない」(金子大榮)を見てくださって、喜びの前に先に悲しみがあるとおっしゃいました。やはり人間として生まれたということは、今のお話でいうと、自分で傷つけ、自分で結論が出せると思ってやって堕ちていくという、それが人間の根本的なありさまだというそういう悲しみの底に触れることを通して、つまり、どこまでも自我・人間の思いというものがあたかも自分のように振る舞って、それによって堕ちていくのだけれども、それが人間存在の悲しみであり、それを越えていく道があるということが喜びなのだということですよね。これはうちの犬を見て思いました。うちの犬は今、目が見えないのですけれども、愚痴を言わないでちゃんとそのことを受け止めて歩くのです。悲しい顔はしますけれども、ちゃんと受け止めるのです。でも、私たちは条件を付けますから、人間はそのままの自分になれないのです。そういう問題があって、仏教を聞くということに関して、先ほど知性とか知的理解とかということが出ましたけれども、どこまでも自分の思いで聞いて自分の中に取り込んでしまったら、余計に苦しくなるわけです。そういう意味で教えをいただくということはどこまでもこちらからは橋がかからないですね。絶対にかからないです。ところが、場とか出遇う時とか、それは言葉であったり、先生であったり、そういうことを通すと、もしかしたら、自分のなかに眠っていた自分の本心が顔を出すかもしれないのです。「かもしれない」としか言いようがありません。「そうなる」とこちらが握ってしまったら、教えが死んでしまいます。

【波佐谷先生】  決してみんなお寺のことを考えているわけではないんですよね。もっといえば、今日は御縁があって、こういう会があるという御縁という意味では、法話会があるということで来られていますから、共通項はありますけど。

蓮如上人という方が、8代目の方ですけど、一つは「仏法者は」という言い方をします。一つは、自分のご安心の問題ですね。もう一つは、縁なき衆生は度しがたいと。駄目だってことじゃないんですよ。御縁なんですね。お寺に全く関心のない人にお寺の話をしても聞く耳がないですよね。そういうことを言われるんですよ。「宿善」「無宿善」っていうんですけど。関心の大きさ、深さが、出遇いの大きさ、深さ、と表現されますけども、まさにその関心とどこで共鳴するか、ということが場の信頼のような気がします。

学んだから共感できるっていうことでは、共感できたとしても自分の世界にこもっていくような悲しさですよね。

ぼくが初めて出た研修会が、よく青年研修会でのテーマが「今悲しみの中に」とかね、「一体人間って何だろう」とか。お寺の研修会でね、そんなテーマのね、「えっ?」とぼくは思ったんですよ。「今悲しみの中に」「人間って何だ」─。それはたまたま障害者の話もあったんで、ぼくの兄が障害を持っていた。ぼくは、兄を人間と扱ってこなかったわけです、同じ兄弟でも。今六十五になりますけど、そのまま大人になっています。いまだにわがままです。今でも子供が大人になったような感じですけども。ぼくにとってはショッキングな言葉だったんですよ。「波佐谷、お前は人間か?」って言うわけですよ。「当たり前じゃないか、このクソ坊主」って思ったんです。何を言い出すんだよ、人間に決まっている。

「本当に人間か? 人間って何なんだ?」と。そういうところが一つの話の取っ掛かりになって。障害者施設で、それこそ風呂に入って気持ちよくなれば排泄することもありますよ。老人介護の現場でもそうですよ。気持ちよくなるからするという現実がありますよね。こちらにとっては気持ち悪いですよね。でもそんな中で、その方はこう思ったそうです、「一体人間って何だろう」って。障害者施設だ、重度の障害を抱えている、そしてケアだサポートだと、こう声高らかに言いながらも、起こってくる心は「こいつら何だ? 一体人間って何なんだ?」。そんなことを思いながら、大谷大学に通っていた。

次に行った場所が筋ジストロフィーですよね。筋無力症。そんな話をされていたんですよ。ぼくは障害者の教学だと思っていると。言い方がおかしいですけど。だから、その障害者の方が、母親とか連れてくるんですよ。「わたしでもこんな、生きている意味がありますか?」─。はっきり言いますよ、「生きている意味はありません」─。「こんな格好こんな姿、肢体不自由で生きているんだけども、そこに生きている意味がありますか?」って言うなら「生きている意味はありません」─。もう母親は、オロオロですよね。何とかしてほしいと思って来ているのに。もし手が動くことが、足があることが、目が見えることが、聞こえることが、動けることが、当たり前だと、それが人間だと思っているならば、生きている意味も価値もありません。でも、手がなくても、動かなくても、しゃべれなくても、ひっくるめて、賜ったものです。

そうは思えないんですよ。思えないけれども、今までのイメージがどっかで崩れない限り、あなたはあなたでいいじゃないかと、いう言葉も。

そんな話を、帰って間もなく聞かされてきたんですよね。一番の取っ掛かりはやっぱり自分の兄が障害を持っていたということですよね。私たちは、常識があるといったら、それを普通の人間だと思うじゃないですか。決めつけているでしょう。そうすると、変な奴だとか、だらしない、と。いい歳になってまだそんな生き方しかできないのか、と。そう思っていたことが覆されていく。そのことが実は、人が生きるという場を閉ざしてきたということに、改めてフィードバックしてくる。周りが常にフィードバック。ああ、そうだったなと。うなずいたとしても、常に確かめていかなければならないような歩みが、私たちにはやっぱり必要なんだろうなと思う。理屈抜きにして思います。

「人として生まれた悲しみを知らないものは、人として生まれた喜びを知らない」って、こんなの通じませんよ、世の中には。悲しみよりも、喜びじゃないですか。犬に生まれなくてよかったね、猿に生まれなくてよかったね、人間に生まれてよかったね、そんなとこでみんな育ってきているんじゃないですか。五体満足とか。そんなことが言えない。そういうことを、ぼくは帰ってからショックでした。

研修会で「お前は人間か?」と言われて。馬鹿でねえか、この親爺。人間に決まってるべやって言いながら。

本屋に行くと障害とか人間とかいのちとかって書いてある。手当たり次第引っ張って積んでおくだけってこともありますけど(笑)そうやって触れる中で、学んでいくということが、またより深めてくれたかな。まさに現在進行形です。常に現在進行形です。命終わるまで現在進行形ということを、今思いますね。

【住職】  みなさんいろいろ感じたことがあると思いますが、時間が参りました。聞き続けたいなという方は、ぜひまたお寺に来ていただきたいと思います。結論があるわけでもなく、ずっと問われ続けてこれを聞かなければならないなということだけが、たぶん足を運ばせるのだと思います。どうも、波佐谷先生ありがとうございました。

(文責: 蓮光寺門徒倶楽部)

波佐谷見正先生

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