あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

買い物難民

篠﨑一朗 〈釋一道〉  (会社員、54歳)

この4月、会社の人事異動ため、北関東のとある県庁所在地に移り、単身生活を送っている。

職場まで徒歩10分と職住接近しているのは良いのだけれど、この地では市街中心部にも結構人が住んでいるのにもかかわらず、その昔賑やかだったに違いない中心地のアーケードは、シャッター通りと化してしまっている。一方、車で20〜30分程の郊外には大規模なショッピングセンターが衛星都市のように散在して、生活必需品はすべて購入でき、快適な生活が送れるようになっている。しかし、それはあくまで自ら車を運転できる人たちに限られるのだ。だが車が運転できるうちは良いけれど、運転ができなくなってきた人達や、高齢者でなくても単身赴任者等で車を持っていない人たちも同様の不便さを感じている。

これらの現象は、中心市街地だけでなく少子高齢化によってかつての新興住宅地、東京の多摩ニュータウンのような高齢者だけの世帯が多くなっているところでは同様らしい。

このようなところでは公共交通機関もバスの便は減らされ、益々悪循環の一途をだどっている。このような現象を現代では「買い物難民」と呼んでいるのだそうだ。

かつての商店街がなぜこんなにも地盤沈下し、活気のある街が無くなってしまったんだろうか。店の人と対面でやり取りしながら、話を聞いて今晩のおかずを考え、旬のもの活きの良いものを家族に食べさせたいとする主婦がかつては存在したはずだ。今はそんな人間関係も疎遠となってしまったのだろうか?

このままで行ったら、年老いた老夫婦だけの世帯では日々の生活にも事欠いてしまいかねない。そこで出てくるのは、生鮮品も含めた日用品のFAX注文等での宅配か、三食食事配達サービスに頼る生活なのであろうか?

あるいは、いっそのこと住居を売り払うか、賃貸に出してしまって自分たちは施設(介護付き老人ホーム等)に入居するしかなくなるのだろうか?

もう少し、時代の趨勢をみないと何とも言えないが、ここでも関係性の希薄化が相当進行してしまっているんであろうか。いったい我々の生活は、どんな方向に行ってしまうのだろう?

経済的な面ばかりに目を向けていると、すべてを一挙に解決する策はなかなか出てこない。そうだ、いつの時代も人は心の面で繋がりを求めているはずだ。せめてそこに目を向けてはどうだろう。

かつて、東海・北陸の多くムラでは、(聞法を中心とする)〈講〉に人々が肩を寄せ合って、地縁・血縁の助け合いの生活をしていた。今やかつてのような地縁社会ではなく、昔のような自給自足時代に戻ることはできないだろうがそのエッセンスを取り入れることで、経済的な難問を一つずつ乗り越える社会ができないものだろうか。ヒントはここにあるような気がしてならない。そのような新しい地域社会の出現に、お寺もその媒介役の一つとして役割を果たせないものだろうか?

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