7年ほど前、愛知県の真宗大谷派のお寺へ、『親鸞聖人御絵伝』の絵解き説教を仕事で聴きに行ったことがある。盛夏の時分で、お寺に着いた時にはすっかり汗だくだった。だが三方から風が吹き抜け、女人講の女性たちの念仏がこだまする本堂に坐ると、えもいわれぬ涼やかな心持ちになったことを覚えている。
念仏が終わると、絵解き説教が始まった。説教師は当時30代半ばのワイルドな男前、真宗大谷派本澄寺(愛知県西尾市)の梛野明仁師だ。
絵解き説教とは、宗祖絵伝や曼荼羅、地獄絵など絵をテキストにした説教である。その起こりは古く、仏教文化を研究されていた関山和夫氏は著書『庶民芸能と仏教』(大蔵出版)でこう記している。《中世において一種の芸能となり、「語る芸」「話す芸」としての特質をも具備した。「絵解き」という行為を実践したものは、僧侶(宗教家・布教家)と、俗人ではあるが僧形をして縁起物などの絵巻物を解説するものもあった。また、全くの俗人で絵解きをするものもあった》
村のお堂で青年会が子供に絵解き説教を行うこともあったようだ。だが昭和に入ってからは戦争や時代の変遷に加え、独特の節回しが伝承を厳しくしたのか急激に絵解きは廃れたという。
この絵解きを現代に復興しようと励んでいる一人が梛野師だった。実際に絵伝を前に語られる親鸞聖人の生涯と教えは迫力があった。
さて、絵解き説教に対する梛野師の思いを聞くうちに、非常に印象的だったのが「語る側」としての次の言葉だ。「私はましになるつもりで始めたが、やればやるほど絵解きというのは僧侶としての自分を逃げのない場所に追い込んでいくものだと実感した」「(絵解きを懸命にする僧侶の姿に心動かされたなら)門徒さんも『私もできます』と立ち上がる」
自分を逃げのない場所に追い込んでいくというのは梛野師の真摯な姿勢だ。ただかつて絵解きは一般の民衆も行っていたとはいえ、門徒が自分もやりますと立ち上がるというのは、どういうことだろう。それは現代に絵解き説教をする意味とつながっているに違いないと思えた。
その梛野師の言葉が先ごろ、ふと脳裏によみがえる体験を得た。やはり仕事で地獄絵の絵解きをしているお寺を訪ねたのだが、ある関西のお寺の話だ。そのお寺では、お盆の頃に必ず住職が地獄絵の絵解きを行っていたが、その住職が亡くなられてしまった。ここに地元の大学生グループがお寺での絵解き開催の代打を申し出た。当初は歴史の教授に絵解きを頼んでいたが、昨年より大学生自ら、子供たちを集めて地獄の絵解きを始めたというから驚いた。「仏教画を語りたくなる」とは単に得た知識を披露したいというものではないだろう。思い出されたのが梛野師の言葉である。学生たちが、「私もやります」と手をあげ、聞き手から語り手の立場へと替わったのは自分たちが心動かされたその宗教体験を伝えたくなったのだ。そして語るたびに梛野師のように「自分に出遇う場」をも実感しているのだろう。ここで初めて教化する者・される者の垣根はなくなり、主体的に教えを聞く姿勢が生まれるのではないか。その姿勢を生み出しやすくするのが絵解き説教なのかもしれない。となれば、絵解き説教に代わる場が現代ではまた、どのように生まれているのか興味がわいた。