あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

法話 川村妙慶先生

2012年 成人の日法話会

2012年1月9日(月)

講師: 川村妙慶先生(アナウンサー、京都市・正念寺)

テーマ:人と成る ─安心して迷える道─」

みなさん、こんにちは。

ただいま、ご住職からご紹介をいただきました、私は京都市の上京区──上京区と言いますと京都御所がございます。その西側にあります──真宗大谷派正念寺というお寺からやってまいりました。先ほどご住職の方から本のご紹介もいただきました。これはですね、私がこれだけ紹介するから僕の本もあとで紹介しろよという間接的なことばだと受け止めて(おります)。私も同時にここのご住職を尊敬しておりまして、いろんなところでいろんな角度から、今の時代にあった教えを説かれているなあと私自身思っております。私も、今回前に座っております蓮光寺教化事業相談役の田口(弘)さんから大切な蓮光寺の門信徒のみなさんの前でお話をして来い、しましょうとお声がけをいただきまして、正直言ってものすごく緊張してるんです。

私自身が何でこんなに緊張するのかなと考えたときに、やはり格好つけすぎようとしている自分があるのかなと思いました。いい話をしてやろうとか、少しは感動の渦で拍手をいただこうとか、そういうことを考えるから余計自分自身が緊張するのかな、そうではなくて、今日は「メッセージ」というところに書いているんですが、蓮光寺さんの御遠忌のテーマ「安心して迷える道」があるということ、そして私自身の恥ずかしい話というか、なぜ私が真宗の教えをいただく身となったのかということをみなさんにさらけ出すという意味でここに参った次第でございます。

決して難しい話はできません。また、途中で眠たくなるかも知れません。眠たくなったときにはどうぞみなさん寝てください。ものは考えようで、目の前で寝ていらっしゃる方がいたら、ああ、私の声が美しいから寝ているんやろうなと思う性格ですので、どうぞ気楽に聞いていただけたらと思います。

安心して迷える道   無量寿としてのいのちと人材としてのいのち

さて、「人と成る ─安心して迷える道─」ということなんですけれども、この「安心して迷える道」というのが、まさに親鸞聖人が私たちにかけてくださった願いではないか、仏の眼ではないかなと思うんです。そこで今日は、仏と──そしてそれに対して私たちは世間の中で生きていますが──この仏と世間の違いっていったい何だろうか、これを皆さんと一緒に考えていきたいなと思います。

「安心して迷える道」というのは、正直言って、世間には通用しません。逆に言えば、世間では「迷うことなく幸せになろうね」という問いかけの方がしっくりいくと思います。ですから書店に行くと、3分で幸せを得る方法とか、一瞬にして幸せを得る方法っていう本というのは、やっぱり売れるんですね。逆にこれが「安心して迷える道」というものがタイトル付けされたときには、そうは受け入れられないんではないかなと思うんです。

そこで、世間っていうのはいったい何だろうか。これはみなさんもよく聞くと思うんですけれども「娑婆世界」ですよね。『歎異抄』にも「娑婆の縁尽きて」というおことばのありますように、この世というイメージがあります。娑婆というのはドロドロとした蓮沼の泥のように喜怒哀楽、苦しみ・悲しみ、いろんなどろどろした、つらい人間関係です。みなさんも今、この世間を生き抜く中で、うれしいこともあるけどつらいこともたくさん経験なさっていると思います。

この娑婆というのはどういう世界かと言うと、私は、比較の──比べる、比べると言うより自分も比べるんですが、比べられる──世界ではないでしょうか。私たちは必ず癖がありますから、まず、これはプラスになる(かどうか)、例えば今日の法話会に来たらプラスになるかな、いやいやあまりプラスにならないんではないだろうか(などと考えます)。私は今この世を生きる中で「勝ち組」だろうか、みんなから認められるんだろうか、いや、まだまだ自分は認められない「負け組」ではないだろうか(と考えてしまうのです)。世間では、若い、健康で長生き(ということに価値が求められ)、テレビでも健康番組というのが一番視聴率を取れるんですよね。健康で長生きってなると、やはりみなさん得をしたい、それで視聴率が上がる。それに対して、老いるということはとんでもないんだ、病気になるなんて嫌なんだということでマイナスイメージを持ちます。

私たちは常にプラスかマイナスか、○か×か、そういった中で比べます。そして、私はどちらのグループに入るんだろうか、「勝ち組」なんだろうか、いやいや「負け組」なんだろうか(と考えて)勝ち組に入れたら満足しますが、ちょっとでもマイナスグループに入ったら、ここで人間は答えを決めつけるんです。もう私は生きていても意味がないんだ、ダメなんだと、自分で自分のことを判断して、自ら死を選ぶ。

自死する方というのは、みなさんも新聞などの報道で毎年3万人以上の方が亡くなられると聞いたことがあると思いますが、これはあくまでも新聞のデータであって、実際は、3万人どころではなくて、その3倍と言われてるんです。なぜなら、中学生以下の自殺というのは、自殺にみなされないんです。すべて自分の判断がないということで事故死として扱われるそうです。

今日は「成人の日法話会」ということで、じゃあ、成人というのはいったいなんだろうかということなんですね。私は約13年間、いろんな形でいろんな方の悩みに向き合っているんですが、どうしても死にたいよ死にたいよという方の中には、自分で勝手に答えを決めて、世間の評価の中でおびえている方が非常に多いんです。あの人からこんなことを言われました、あなたは生きていても意味がないって言われました、するともう私はダメなんだ、ということで自ら死を選ぶ方が多いんですが、私がその時に返事をするのは、「世間の中の評価が本当に正しいんですか。仏さまの眼をいただきましょう」という話をいつもしています。

人間というのは、仏さまは「人」としてみなします。ひとりひとりが、大切ないのちとして(みなすのです)。比べるのではなくて「無量寿」、ひとつひとつの比べることのない──「量」というのは「はかり」ですからね──量ることのない尊いいのちを生きましょうと教えてくれます。(世間では)人というのが人材になるんです。能力があるのかないのか、この会社にとってメリットがあるのか、稼いでくれるのか。すると私たちはやはり、能力を持たなければならない、才能も鍛えなければならないということでなんとか人よりも勝ち進もうとして生きるんですが、それはあくまでも世間の目。仏さまというのは、ひとりひとり「私」に成りましょう(と、教えてくださいます)。これが成人の大切な意味なんですね。成人というのは、煙草も吸えるよとか、お酒も飲めるよという、そういったものだけではなくて、本当にどんな状態になっても私として生きることができるか、そういった勇気をこれを機縁に持てるかどうかというものが成人の大切な意味ではないかなと思います。

私も成人式のことを思い浮かべると、とにかく人に気に入られたいとか、アドレス帳にたくさん友だちを書くとみんなから人気があるんだとか、何か幸せに楽しく生きることが人間の生きがいなんだとか、そういったことばかり思っていました。ちょうどろうそくで言うと燃えつきるのです。でも肝心なのは、ろうそくには芯があります。(その頃の私には)中心に入る教えというものがひとつもないんです。ただ楽しければいい、ただ賑やかだったらいい、毎日を何の不満もなく生きることが成人になることだと思っていたんですけれども、でも「あんたには芯があるのか」と言われたことがあるんですね。その時に、そうか、ろうそくというのは、しっかりと芯があってこそ燃えることができる(と気付かされました)。また空気がなければ燃えることができません。人のご縁によって私は本当に成り立っているのか、そういうことを振り返ることができるのか、これが人間として生きさせていただく大切なことなのかなということを、今あらためて考えております。

如意と不如意

仏教用語を少し使わせていただきますと、娑婆では、世間では、「如意」として生きましょうということを教えているんです。「如意」というのは、思い通りに生きる(ことであり)、そのためにはどんなことでもやりましょう、科学の力も借りよう、どんな能力を使ってでも、どんな方法を使ってでも、思い通りになる(ようにしようということです)。でも仏さまの眼から見ると、思い通りになれないのが人生なんですよと(いうことになり)、これを「不如意」に生きると言います。思い通りになれないというのは「失敗だってしまっせ」ということです。失敗するんですよ。

だけど私たちってね、なかなか最初からそういうことをお伝えしたって無理なんです。だいたい、みなさん生まれたときから「あんた、元気で可愛く誰からも愛されるように育ってくれよ」って、親から言われませんでしたか。「あんた、みんなに嫌われても大丈夫やからね」なんて、そんなこと言いませんよね。可愛く、賢く、そして元気な子になっておくれと、常にプラスを植えつけられるんです。すると学生になると「勉強しろよ」「いい学校に入ってみんなに尊敬される大人になれよ」と言われるわけです。そして、結婚なさっている方は、結婚式では「おめでとう、幸せにな」っと言われます。誰も結婚式で「不幸になれや」って言いませんよね。そんなこと、司会者さんなんかが言ったらすぐ首になっちゃいます。

そのように、私たちは常に勝つことはいいことなんだ、○はいいことなんだというふうに、プラスの中で生きよう生きようとします。それが、社会に出てマイナスを味わう、思い通りになれないときに、私は不幸なんだ、私は誰からも認められないんだということで、自分を責めるんですね。しかし、仏さんは、いいことももちろんあってほしいけど、つらいことだってあるんだよだということを同時に教えてくれるんです。しっかりと両方を見る目を持っておくれということをおっしゃるんです。仏さんというのは、合格点を取ったから救われるんではなくって、如来というものはすべてのものに生きてほしいと願われています。これが「摂取不捨」と、親鸞聖人は一所懸命私たちにメッセージを届けてくださいました。

「正信」ということ

そこで、今度は仏さまから見る本当の教えっていうのは、いったいなんだろうかということです。娑婆の教えというのは、金持ちになりましょう、出世しましょうということになるんですが、本当の教えというのは、まさしく今みなさんといただきました「お正信偈」の120句の念仏がすべてではないかなと思っています。あらためて「正信」というのはどういうことなんでしょうか。

「正」は、因果の道理を知りましょうという意味なんですね。因果は「生老病死」ということです。私たちはこの世に生を受けました。自分の意思で生まれたっていう方は誰ひとりいません。みなさん、どうですか、「何月何日に自分の意思で生まれました。これ定刻通りです」っていう方いらっしゃいますか。まずいないですよね。また、お父さんとお母さんから生まれましたよね。「あの、私、池から生まれました」って方いらっしゃいますか。「木から生まれました」って方がいらしたらぜひ教えていただきたいんですけど、まずないですね。必ず私たちは、ご縁があってお父さん・お母さんから生まれさせていただきました。そして、この世に生を受けたということは、必ず老いますよ、必ずみなさん平等に老いますよ、そして病にもなりますよ(ということなのです)。それが娑婆では、老いないようにしよう、アンチエイジングとか、例えば整形手術でもして若く見せようとか、あとは病気にならないようにするにはどうしたらいいのかとかというような、こういった因果から外れるようなことをしようとするのが、どうしても世間の目なんです。しかし仏さまは、生まれたということは、平等に老いてもいくし、病気にもなるんですよ、そしてやがてお浄土に──元の場所に──還らせてもらうんですよ(と教えていらっしゃいます)。これをしっかり見られないから私たちは悩むんです。これを確認できたときに「道理でね」と(いうことが言えるわけです)。私たち、普段から会話で使うじゃないですか。要するに、今の道理をしっかりと見極める目を持ちましょうということなんです。

そして「正信偈」の「信」です。これは親鸞聖人が最もおそれられたのは「傍信」と言いまして、傍らに教えを信じるということです。

私は京都の正念寺というところで何度か法話会とか、一般の喫茶店なんかでも法話会を開いているんですけれども、毎回来られる奥さんがおられます。その奥さんはニコニコ笑っていつも話を聞いてくださるんです。そして帰り際に必ずおっしゃいます。「妙慶さん、法話を聞くと心が洗われるわ。心が本当にきれいになるわ。いいわね、法話っていいわね」って何度もおっしゃるんです。あるときに彼女と帰り道が一緒で歩いていると、携帯電話が鳴ったんです。バッグから一所懸命携帯電話を取って──ご主人だったみたい──「ああ?何?メシ?カレー?カレーはな、冷蔵庫にあるから。手のかかる人やな」ってガッチャッと切らはったんです。さっきまでニコニコと笑って、心が洗われる、心がきれいになるとおっしゃっていても、いざ実際の生活になってしまうと本音が出るわけですね。

要するに、そのときだけいい人になってるんですが、一歩本堂の外に出れば、本当の自分に戻っているんです。だから傍らに信じるということは──先ほどご住職もおっしゃったみたいに、癒しということばが世間では流行ってますが──一時しのぎなんです。いい人になった気分になってるんですが、大切なのは、本堂に来ておまいりをするというのは、私は煩悩をたくさん抱えていた身でありましたということを自覚させてもらう、それだけでいいんです。そして、その煩悩をテイクアウトする、それが私は真宗で大切なところかな(と思います)。「いい人になりました」「私、変わりました」と堂々と言うんではなくて、むしろ「やっぱり、いい人にはなれんね」ということを自覚できるかできないかっていうところが大切なんではないかなと思います。

そして「狂信」。狂ったように教えを信じてしまうということです。私たち僧侶が心を悩ませているというか、胸を痛めているのは、全国には間違った教えを伝えられる新興宗教というのがはびこっています。みなさん、これからいろいろなところからお誘いがあるかも知れませんが、新興宗教と、ちゃんとしたことをお伝えいただく宗教もたくさんありますが、その違いは、「幸せになれますよ」「お金持ちになれますよ」「今以上の生活が、楽しい生活が待ってますよ」ということを、幸せを売り物にしている教えは、ぜひ信じないでください。それは、思わせぶってその時の不安をなんとか紛らわそうとしているだけで。「どんなことがあってもあなたはあなたとして生きていける道がある」ということを教えてくれる、これが私は本当の教えだと思います。ですから狂信というのは「この教えさえ信じておけばあんたは幸せになれるよ」ということで、狂ったようにその教えだけを信じてしまうということは、これはとっても怖いことです。

私、以前、たまたまタクシーに乗っていたんですが、前には軽自動車が通っていたんですね。すると、その軽自動車からタクシーに向けて、何か人形が投げられたんです。運転手さんは危ないということでブレーキを踏んで、信号待ちのときに投げた方に注意したんです。キューピー人形を投げてきたんですよ。なんでキューピー人形を投げたんでしょうねって聞くと、(軽自動車の)後ろに座っている方が、今日は引っ越しの日で、ある霊能者の方に相談したら、キューピー人形を後ろの車に投げたら悪運が後ろに行くからあなたの今までの悪運がすべて取れると言われて、信じて投げたと言うんです。投げられた私としては、悪運が来るかなと思ったんですが、今のところ何もないんですけど、そのようにそれを真剣に信じているという人間の弱さを感じたものです。

そして、みなさんよく聞くように「迷信」というのがありますよね。四のつく字はとか九のつく字はとか、大安の日にやったら何もかもいいことがあるとか、仏滅はどうだああだとか、そういう日にち的なこと、場所的なことをひたすら真剣に信じてしまうということです。

その中で、本当に信じるとはどういうことなんだろうか。それはただ娑婆のことばを鵜呑みにして、あの人がこう言ってたから、立場のある方が、権力のある方が、言い方の強い人がこう言ったからそうなんだで判断するんではなく、「正信偈」の教えはあなたは今どこに立っているんですか、そしてどこに向かって歩こうとしているのか、そのことをしっかり──自分の居場所を、自分の立ち位置を──しっかりしなさいよということを教えてくれるのが、「正信偈」のお念仏の本当の私たちの出遇いの場ではないかなと思います。ですから、「心を弘誓(ぐぜい)仏地に樹て」(『浄土文類聚鈔』/『真宗聖典』409頁)る。やはり、人中心の、娑婆中心の考えではなくて、仏地、仏さまの立ち位置からしっかり自分がどこに立つのか。大木というのは根を生やしているからこそ飛んで行くことってありませんよね。しっかり仏地に根を生やして生きていけるのかいけないのかというのが、今の私たちに問われているようです。

私のとても好きな詩があるのでここで紹介させていただきます。

あやまち

あやまちは誰でもする
つよい人も 弱い人も
えらい人も おろかな人も
あやまちは人間をきめない
あやまちのあとが人間をきめる
あやまちの重さを自分の肩にせおうか
あやまちからのがれて次のあやまちをおかすか
あやまちは人生をきめない
あやまちのあとが人生をきめる

(ブッシュ孝子『白い木馬』所収)

これはブッシュ孝子さんという方の詩です。あやまちをしたからもうおしまいではない。

よく悩みを持つ方で、20代の方は──今、成人式を迎えられた20代の方は──これから先があまりにもありすぎて先が見えないと悩みます。

逆に40代、50代、60代、それ以降の方は、もうその倍以上生きてきたからこの先がもう見えすぎて、もう何をやっても遅いんじゃないかと決めすぎて悩むんです。逆にもう先が見えてると決めつけるんです。

しかし、親鸞聖人は自分の失敗とかやれなかったことをとがめているのではなくて、そのあとあなたはどう生きるんですかということです。人間は必ず失敗もする。もちろん、がんばった分成果があることもあるでしょう。でも、その失敗がその人の人生を決めるんじゃない。その後なんだということを、ブッシュ孝子さんもとてもわかりやすく表現してくださっているなと思いました。

私と真宗との出遇い   他力のなかの自力

さあ、そこで、あっという間に時間が来ましたので、後半の部分は、私がなぜ今僧侶として生きているのか、この話をして終わらせていただこうと思いますので、あと少し耳を傾けていただけたらと思います。

現在、私は京都に住んでおりますが、生まれは福岡県の北九州市門司港というところです。みなさん、門司港ってご存じですか。門司港は何で有名かと言いますと、バナナのたたき売りで有名なところなんです。バナナというのは台湾やフィリピンから船で運ばれてくるんです。それを一度門司港駅で荷物を下ろすんです。傷みかけてくるバナナはなかなか商品として売れませんから、バナナのたたき売り師さんは門司港駅前でおもしろおかしく捌いていくんです。通りがかりの人を捕まえて、「にいちゃん、にいちゃん、ここのバナナ安いよ」と、パンパンパンって捌いていくんです。このバナナのたたき売り師さんは、どこでこの技法を学ぶのか。JR門司港駅というのは国の重要文化財になっているんですが、その門司港駅の2階にバナナのたたき売り師専門学校というのがあるんです。本当にあるんですよ、みなさん。

そのバナナの町で、私は真宗大谷派西蓮寺という寺の娘として生まれました。しかし、寺の娘として生まれただけであって、まったく仏教には関心がありませんでした。なぜなら、お寺というのはご門徒によって支えられています。そのご門徒が200ほどありました。そして、そのご門徒がいて当たり前という感覚しかありませんでした。また、住職──父親ですね──父親が住職をして当たり前という感覚しかありません。

すると、人生は、何があるかわかりません。よく3つの坂でたとえられますよね。人生は、上り坂、下り坂、それにまさかの「さか」。まさか私がこんなことになるとは夢にも思わなかった、という「さか」は、私が高校2年の時でした。その住職である父親が、突然亡くなったんです。すると、家族、親戚、私は(私の)1つ上の兄に対して、集中してことばで攻撃するんです。「兄ちゃん、寺の長男やもんね。この後は兄ちゃんが寺を継ぐべきや」。やはり、この思い、「如意」という思いを相手にボーンと投げつけるんです。「兄ちゃんが継いでよね。男やろ。兄ちゃんが継いで、当たり前やろ」。すると、一方的に思いというボールを投げられた兄は、受け入れられません。兄も10代でしたから。

人間というのは、自分はダメだ、ダメだ、更に自分を追い込んでいくと、先ほどの自死という形でも出ますが心の病という形でも出ます。自分を否定して怒りが出てくるんです。すると世間に対して遮断することになります。それが、兄は「ひきこもり」という形で出ました。一歩もその日から部屋から出なくなったんです。私が後でどんなに謝っても、人間って一度心を閉ざすとなかなかその心を開ける、開くということはしないんだなと、もう身でもって感じました。一歩も部屋から出なくなったその現状を見て、200ほどあったご門徒は、ひとり他のお寺に移り、また他のお寺に移り、1年間のあいだに、ご門徒がゼロになったんです。まったく誰もいない状態です。すると近所からこの寺は駐車場になるんや、マンションが建つんやという噂が立ちました。

母親にしては、自分の代でお寺をつぶしたなんて、シャレにならんと思ったんでしょう。今度は私に期待をかけるんです。「亡くなった父ちゃんや、すべて去った門徒さん、そしてひきこもりになった兄ちゃん、もうこれ以上責められん。それよりも、おまえが京都に行って坊さんになってくれ、頼む」。頭を下げられました。しかし、いきなり坊さんになってくれって、私には心の準備も何もないんです。まったく仏教に関心はありませんからね。「なんで私が親のいいなりにならなきゃならないの。何でこの若さで私が坊さんにならなきゃならないの。イヤイヤイヤ」って、ずっと反発をしていました。

でも、私、今この歳になって思うことは、反発って大切だったなと思います。もしもみなさんのお知り合いの中に、ご家庭の中に反発する子供さんがいたら、これは、健康的な証拠だと思ってください。人間はなんで反発するかと言いますと、現実が見られないんです。私だってお寺がどんなに大切かは百も承知です。だけど、私がやる自信がないんです。勇気がないんです。ですから、それを見ながら背中を向けていました。意識の表れなんです。「なんで私が寺の犠牲にならなきゃいけないの」と言いながら、寺を無視できない。また、当時私はバブルの時代の学生なんですね。どうせ京都に出るなら、さわやかな花の女子大生を経験して、当時ディスコというのが流行っていたんです、ディスコに遊びに行ってナンパされるなら、やはり明るい花の女子大生じゃないともてない。「あなた、何専攻してるの」「仏教」「わぁ、仏教、ダサあ」って絶対言われるから「イヤイヤイヤ、絶対イヤイヤイヤ」って逃げてました。

どうしたらさわやかな花の女子大生も経験できて、更に仏教も学べる一石二鳥のような大学ってどこかにないかなと、自分に都合のいい学校選びが始まったんです。ひとつあったんです。それが池坊短期大学というところでした。池坊というのは池のほとりで坊さんがお花を生けていたんです。なぜかと言うと、仏教を初めて日本に広められたのは、ご存じのように聖徳太子(厩戸皇子)さんです。聖徳太子さんは京都に来て、烏丸にある六角堂を建立しました。そこに池がありました。お寺を建立したということは、仏前供花、仏さまにお花を荘厳するにはということでお坊さんが初めて池のほとりでお花を生けた。その初のお坊さんが小野妹子さんなんです。その小野妹子さんがお花を立てて仏さまに荘厳したというのが仏花のスタートですし、生け花のルーツは全部お仏花なんですね。それが今、生活様式の変化によって、フラワーデザインとか、いろんなところでお花を生けられています。すると、お寺にも役に立つ。仏花も勉強できるし、仏教とは全然かけ離れていないと思いました。また、当時はバブルの時期ですから、池坊の出身の人は社長秘書就職率ナンバーワンだったんです。お花を生ける。お茶もやります。あと、礼法というたしなみも習うんです。すると当時は──今では考えられないですよ──引く手あまたに社長秘書の就職があったんですね。じゃあ、この学校に入ろうということで入学をいたしました。

実技の授業です。薔薇なら薔薇、菊なら菊、百合なら百合、同じ花を、50人のクラスのメンバーが一斉に生けるんです。私は周りのメンバーのお花の作品を見ながら、不思議でなりませんでした。誰ひとり同じ形にならないんですね。クラスでとっても目立つ、いつも「おはよう」と言う姉御肌風の女の子の作品はというと、こんなちっちゃな、さみしそうなお花を生けてるんですよ。えらいこの子、見た目と作品にギャップがあるなあと思いました。今度は対照的です。誰ともしゃべらない、いつも下を向いて暗そうに見える女の子が、お花の作品となったらまた華やかなでっかいお花を生けてるんですよ。またこの子も見かけとギャップがあるなあと思って、そばにいた師匠に聞きました、「師匠、おもしろいですね。あの子、あんな元気やのになんでこんな花が暗いんですか」。すると師匠は私にこう言いました、「川村さん、あなたお寺の娘さんでしょう。だったらわかるはずよ。お花っていうのは、ただ技術で生けてるんじゃないの。心で感じたことがそのままお花の形として表現されてるの。あの子、あんなに元気で強そうに見えるかも知れないけど、心の中はさみしいのかも知れない。そのさみしさを紛らわすために、見かけを派手にしたり大きくしたりしてるんじゃないの。あの子、あんなにさみしそうに見えるのは、あなたがそう見てるからでしょう。心の中は満足してるのかも知れない。ひとりで生きるという自信があるのかも知れない。そのみなぎった自信がお花の作品になってるんじゃないの。あんた、見かけで判断しなさんな。寺の子やったら、そういう心というものをもっと勉強しなさい」強い口調で言われました。

私は初めて恥ずかしいなと思ったんです。そこでようやく、東本願寺の関連学校である大谷専修学院という全寮制の学校に入学いたしました。

この学校は、いまだに携帯電話・テレビ禁止なんです。私の時代はまだポケットベルだったんですけれども、今の学生にとっては「ケータイ命」ですからね、それを1年間もう家に戻しなさいって言うんですよ。すると、当然ブーイングなんです。「なんでこの情報社会に携帯電話が使えないんですか」「テレビ見れないんですか」。すると私の担任の先生がこう言いました。「あんなぁ、テレビ無くったって、人間、死にはせんのや。なんでこの学校に置かんか知ってるか」。食事をともにいただくんですね、全寮制ですから。すると、どうしてもテレビがあると、目の前のテレビを見ながら黙々と、食を見ることなく(食べる)。すると食べた感想は「ぬるい」「苦い」「まずい」。「この食に対して、いただきます。いのちをいただきます。この恵みをいただきますと食に向き合う人になってほしい。そして作ってくれた人に対しても『おいしかったですよ』『おごっそうになりました』とちゃんと向き合える人になってほしい。携帯電話もあれば便利だけど、謝るときは時間さえあれば相手の顔を見て『申し訳ございません』と言える人になってほしい。ここではな、人と人が出遇う場所なんや。だからいらんのや」って言われました。

その中でも、私はやはり格好つけていました。みんなの評価っていうのがすごく気になっていたんです。いつもニコニコ笑っていました。すると、専修学院の先生が私の顔を見てこう言ったんです、「川村、おまえ、いつもニコニコニコニコ笑って、ええ子やなぁ」って言ってくれました。「やったぁ」私、褒められたと思って、「先生、ありがとうございます。これが私のとりえなんです」って言いました。次に、先生はこう言ったんです、「川村、おまえ、そんなにニコニコニコニコ笑わなあかんほど過去が暗いんか」って言うんですよ。みなさん、意味わかります? 「おっしゃっている意味が、さっぱりわかりません」て言いました。「おまえ、何しにこの学校に来たんか。明るい自分を見せたくって、この学校に来たんか。お前が笑えば笑うほど、背中に隠されたつらいものを俺は見てしまう。ちょうど人間というのはなあ、一枚の紙と一緒なんや。表もあれば裏もある。表と裏があって一枚の人間や。プラスとマイナスがあって、ひとつの人間なんや。おまえが一所懸命プラスの自分を見せれば見せるほど、マイナスの部分を俺は見てしまう。おまえ、この学校に来た理由、俺が当てたろうか。『父ちゃんが亡くなりましてね。門徒さんがすべてゼロになりましてね。兄ちゃんがひきこもりになりましてね。私、これからどうやって生きていったらいいんですか。先生、教えてください』っていう心の叫びが、おまえ、あるんと違うか。人間はなあ、取ろうと思っても取れないないものがあるんや」。それが、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」( 『歎異抄』/『真宗聖典』634頁)とお示しいただいた「業」で、この「業」というのはわかりやすく言えば、私たちひとりひとりが持っている心の荷物のことです。変えられない事実です。

だけど、私たちは娑婆の中で生きれば生きるほど、仏さまの眼を背中にそらして生きれば生きるほど、なんとかその荷物を自分の力で解決してみせようと思います。ですからどうしても世間では「自力」って喜ばれるんです。どんなに親鸞聖人の教えである「他力」「他力本願」と言ったって、人間、やっぱり「自力」が大好きなんです。

みなさん、どうですか。「なんもせんでええ」と言われるより「努力したら幸せになれるよ」と言った方が、何かしっくりくるでしょう。がんばったらがんばった分、何か成果が来るんだと錯覚するんですが、みなさん、自分の人生を振り返ってみてどうですか。すべて思い通りになりましたか。努力した分、全部それがすべて成果になっていますか。そんなことないですよね。がんばっても、がんばっても、どうにもならないことだって半分以上あるんです。

それを、親鸞聖人は──私的に受け止めたのは──「みなさん、努力の仕方がまちがっていますよ」と教えてくれるようです。自力を否定したんじゃないんです。人間は最初、やはり自力を経験します。がんばろうとするんです。それを否定したんじゃなくって、自力がすべてではないんだ、実は「自力、自力」と言うけれど、その周りにはすべて、他力が私たちを包みこんでくださっているんや。そして、その中に私というものがあるんやということを教えてくれるようです。

娑婆に出てボロボロになれ

先生は、「取ろうと思っても取れない心の荷物はみんなあるんや。『私があの親の娘じゃなかったら、息子じゃなかったら、もっとこんなこともできたのに、ああ、親の寿命を引き受けてしまった。どうしたらいいんだろうか』、どうしてもそういうものを責めようとするけれども、それは全部自分で引き受けようとするんではなくて、背中に背負い込んでいるその心の荷物を仏地、阿弥陀さんの大地に下ろしたらええんや。そして今、自分がしなければいけないことは、ひとつでいい。これもあれもと言うから、人間はわけわからんようになる。ひとつのことを、ただひとつのことを、ご縁をいただきながらさせてもらったらええんや」って言われた時に、私は気持ちがとても楽になりました。

このまま、まだ九州に帰る自信がないんですね、父親がいませんから。そこで私は先生にお願いをしました。「先生、もうちょっと、この学院に残してください。荷物持ちでも何でもします。先生、弟子にしてください。お願いします。この学校にもうちょっと残って、私勉強したいんです」ってお願いしたんです。すると先生は「川村、おまえはこの学校に残るな」って言いました。「どうしたらいいんですか」「娑婆に出ろ、娑婆に」「娑婆に出て、私どうしたらいいんですか」「ボロボロになれ」って言うんですよ。「ボロボロにならないように、要領よく生きることを教えてくれるのが仏教じゃないんですか」って言ったんです。すると先生は、「おまえ、全然わかってないな。とにかくおまえみたいな人間、一回娑婆に出てボロボロになって、いずれかまたこの学校に戻って来たらええ」って言われたんですが、私、腹が立って「先生、口だけ、口だけ。偉そうなこと言って、最後は面倒見てくれんのや。ああ、わかった、わかった。ええわ、ええわ。私の力で何とかしてみせる」人間の心って、本当にいい加減だと思います。他力や他力や言っときながら、ひとたび裏切られたと勘違いすると、やっぱり私しか信じられん。力ずくでも偉くなったろう、絶対みんなを見返してやると思って、娑婆世界に出ました。

そして、かろうじて私を雇ってくれるという仕事先は、花に技術があったということで、お花屋さんでアルバイトをしながら、空いた時間は仏法聴聞させていただいていました。あるときにお花屋さんからお給料をいただいて、ふと思ったんです。どうせお給料をいただくなら、本来自分がやりたかった仕事にちょっとでもいいから就きたいなと思いました。それが、アナウンサーの仕事だったんです。私は小さいときから「ラジオっ子」で、「今日も元気にいってらっしゃい」という、この声に憧れていました。なんとことばってパワーがあるんだろうな、こんな声の仕事したいなと思ってたんですが、父親が亡くなったということで、局アナは諦めました。局アナっていうのは、もう18歳から声を作っておかないといけないんです。そしていよいよ放送局を受けるときには、もう声ができあがっておかないと、もう無理なんですね。

そこで、私は局アナは無理だ。じゃあもう一つの方法として、フリーのアナウンサーという道があります。大阪のNHKが経営するアナウンススクールに2年間行きました。そのときには、講師のおひとりとして、今はなき逸見正孝さんがおられました。それは厳しく鍛えられたもんです。

そして、卒業して、憧れのテレビやラジオの仕事につけるかなあと思いきや、そうは都合よくいきません。人前で話すというのは、ことばに責任があります。人の人生を変えてしまいます。法話はもちろんそうなんですが、アナウンサーの仕事だってそうです。「今の無しです、無しです」なんて言っても、ことばは残っていますからね。

すると、登竜門として、子供さん相手の仕事が圧倒的に多いんです。初めていただいた仕事は、キャラクターショーの司会のお姉さんです。マイクを持って、そして遠くで遊んでいる子供たちに呼びかけるんです。「よい子のみんなー、今からアンパンマンショーが始まりますよー。集まって来てくださーい」「ええ、今日はウルトラマン?」「ウルトラマンショーですよー」土日祝日のたびに、北は北海道から南は鹿児島まで、ずっと回るんです。

半年も経ちゃ嫌になります。将来、寺でも継がんならん私がですよ、何がウルトラマンや、何がアンパンマンや、こんなことしてなんの意味があるんやろ。自分に矛盾を感じながら1年間やっていました。そして、次にいただいた仕事がプロレスラーのインタビュー。勝ったプロレスラーは先輩アナウンサーが行くんですが、私の担当は負けたプロレスラー。怖いですよ。相手、負けてるから機嫌が悪いんです。聞き方間違ったらえらいことになります。「弱いんですね」なんてそんなこと言ったら殴られますからね。いかに負けた時の心理状態を聞くか。これ、アナウンサーの中でもものすごく難しいんです。ニュースというのは、あらかじめニュース原稿というのを記者さんが書かれています。また、今は──みなさんご存じかも知れませんが──カメラの上にテロップが流れるんです。そのテロップを目で追っちゃたいへんですからね、目で追わずにしっかり一点でもって読み上げるという訓練さえできたら、ニュースはわりと簡単なんです。でも、インタビューというのは、相手の気分・状況で変わりますから、それは本当に難しいんですね。

そういった勉強をしまして、27歳の時、やっと松竹芸能というところがうちに来ないかという声をかけてくれて入社しました。漫才師じゃないんですよ、アナウンス部っていうのが一応あるんです。東ちづるさんとか、いろんな方が出身なんですけど、そこに入社をいたしました。同期生が80人ぐらいいたでしょうかね。その同期の仲間と手を握り合って「がんばろうね、関西だけではない、東京へ行って全国ネットの番組を取ろうな」とみんなで誓い合うんです。

しかし、私には一切仕事がありませんでした。あったとしても地方のテレビ1本です。しかも、視聴率の全然取れないテレビなんですね。それがあるだけで、あとは暇な日々が続くんです。暇ですから部屋にいるしかないんです。「ああ、おもろないなあ」と思って「テレビでも見よ」とテレビをつけると、さっきまで手を握りしめていたメンバーが、いきなり全国ネットの番組に出ているんです。「はーい、私たち○○○って言います。今日からこの番組のレギュラーでーす」とか言って手を振ってるんですよ。すると私の心の中は、初めて「おもしろくない」と思いました。これが煩悩の仕業です。

ご存じのように、「三毒の煩悩」というのがあります。ひとつは怒り。腹立ってしかたないんです。「なんでこの二人が売れるわけ。たいして顔も変わらんのに。私もそこそこべっぴんやのに、なんで(この二人の方が)売れるんや」腹立って腹立って、怒りの中なんです。自分を見ることもなく、相手をとがめることしかないんです。煩悩というのは、身を煩わすと書くように、私自身がわからないんですね。そして、今度は愚痴る。人に愚痴を言いまくるのです。「あの二人ってね、たいしたことない。実力もないんだよ。マネージャー運があるだけなんだから」って、一所懸命愚痴を言うんです。そして自分の心を何か落ち着かしているんです。そして、今度は貪欲(とんよく)。仕事欲しい、仕事欲しい、仕事欲しいといくら投げかけても、現状は変わりません。かわりません。そうなんです。私は今の現実を見ることなく、ただ周りに流されて煩悩に流されているだけだったんですね。

そんなときに「私って、この仕事向いてないんかなあ」と、ぐるりと自分の部屋を見回すと、今まで開けることのなかった『真宗聖典』(に目が止まったのです)。何年ぶりでしょう、一ページ、一ページ、いただきました。すると、専修学院時代の先生が「おまえ、娑婆に出てボロボロになれ」と言った意味がようやくわかったのです。私があのまま専修学院に残ってたら、ただ知識だけ埋め込んで「ああ、このことばね。今度母親を説教したろ」「ああ、このことばね、今度友だちに言って聞かせよう。あの子、最低やもんな」常に仏法を私の「ネタ帳」でしか利用していないことを、先生はもう見抜いてたんです。「おまえがこのことばに出遇っていかんなあかんやろ。人を批判するための、おまえは材料にしてるやろ」ということを、先生はもう見抜いていたんです。だから身をもって、おまえがはじかれて苦労して来いよということで私を敢えて娑婆世界に出したんやと、はじめて先生に感謝できるようになりました。

「私はこのまま東京に行くことが目的ではない。本当の目的は反対や、九州のお寺に帰ることなんや」。33歳の時に、思い切って荷物をまとめて九州のお寺に帰りました。

兄と向き合う

ここからです。お寺に帰ったからって状況はまったく変わっていません。兄のひきこもりはずっと続いていました。母がなんとか、教員をしながらお寺を守ってくれていました。これからどうやってお寺をPRしよう。お寺を知ってもらわなければなりませんから、どうやってお寺を知ってもらおうかなって悩んだんです。

みなさんね、変な話、お寺ってね、営業しにくいんです。名刺を持ってね、ある家庭に行って「西蓮寺です。何かあったらよろしくお願いします」「何かあったらよろしくって、俺に死ねっていうことか」ってなりますからね、営業しにくいんです。またね、広告も打ちにくいんです。「西蓮寺グランドオープン、お浄土行き半額コース」とかね、そういうことを打ち出したらご本山に怒られますから、軽率なことができないんです。

どうやったらお寺を知ってもらえるんやろうかって悩んだときに、私にとって決定的な出来事がありました。それは西蓮寺の隣の隣の隣の隣に、なんとご門徒だけでも3000件もある大寺があるんですね、その大寺のご住職が決まった時間に毎日休憩しに来るようになったんです。「妙慶さん、ちょっとここ、腰掛けさせてな。お水でもお茶でも何でもええんやけど、ちょっとよばれたいんやけど」って言うんですよ。

私、不思議でね、「ご住職みたいな大寺の方が、なんでうちみたいな貧乏寺へお茶飲みに来るんですか。自分の寺に帰れば、焼酎でもビールでもカルピスでも何でもあるじゃないですか。なんで、自分の寺に帰らないんですか」って言いました。するとご住職は「自分の寺に帰りゃ、電話は鳴る、葬儀の依頼、法事の依頼、役員会と僕に休む暇なんかないんだよ」とおっしゃったんです。「じゃあご住職、喫茶店っていうのはありますよ。喫茶店に行きゃ、優雅に音楽でも聴いてお茶でも飲めますよ」って勧めました。するとご住職は、「冗談じゃないよ。僕の顔は町じゅうに知れ渡ってるだろう。お茶なんか飲んでたら、通りがかりの人に見られるは、隣の席の人から『○○寺の住職、何とか言いながらサボってるんじゃないか』って言われるからね、僕、喫茶店になんか行けないよ。なぜ僕がこの西蓮寺に来るかって言うとね、誰ひとり出入りのない、人けのない寺だからだよ」。

私はまた松竹芸能時代と一緒で、三毒の煩悩がドンブラコ、ドンブラコと、怒り、腹立ってしかたないんです。こっちは一本でも仕事が欲しいのに、自慢しに来たんかいな、自分が忙しいことを。そして愚痴。本当にあの人って腹立つわ、イライラするわ、なんで私がこんな目にあわないかんのやと、あと愚痴の日々です。そして「私だって仕事欲しい。西蓮寺だってご門徒が増えてくれたらいいのに」って、仕事欲しい、欲しいの一点張りです。

その時に、私は、ちょっとでも親鸞聖人に教えをいただいてよかったなと思いました。それは、何か親鸞聖人がポンポンって肩をたたいてくれているようでした。「おまえなあ、ただ状況に流されてるだけやないか。今、おまえが何をせなあかんのか。それは大きなお寺さんとおまえを比べてるからしんどいんや。なんで自分に成らんのか」。そのお寺さんのように大きくしたいと思うのが私の不幸の始まりであって、私らしく生きる、私に成るということは、お寺というものはいったいどういうものか、家族とともにまた向き合っていく時間を私がまったく持てていない。それを言い当てられたようでした。

そして原点に帰って、本堂の前で阿弥陀さんと向き合った時に、私は、兄を軽蔑していたんだということに気付きました。どこかで私は、兄がひきこもりになったということを、腹も立っていたし、そして、あんな人間にはなりたくないと兄を非難していました。それは私の思い込みなんです。

そこで、私は兄と出遇っていこうと思って、兄の部屋をノックしました。「兄ちゃん、今日だけはどうしても、兄ちゃん、入れてほしいんよ。入れてくれんかなぁ」と言ってみたんです。すると兄は扉を開けて「うん、入って」と言いました。

私はてっきり「ひきこもりだから、三度の食事を親に作ってもらい、寝ちゃ食い寝ちゃ食い、あるときにはテレビゲームをして優雅な生活しとるんやろうな。その点、私はこんなにがんばっているのに」(と思っていて)だから、兄を軽蔑していたんです。

しかし兄の部屋を見た途端、私の思い込みはすべて覆されました。兄の部屋にはテレビゲームなんかひとつもない。毎日掃除をして、机の上にはA4サイズの紙が山のように積まれているんです。私はびっくりして「兄ちゃん、それ何?」って聞いたんです。すると兄は「これ、小説を書いてる」って言うんですよ。「へえ、お兄ちゃんが小説。何ていうタイトル?」って聞いたら、兄は恥ずかしそうに「その後のウサギとカメ」(と答えてくれました)。ズズッと来て「その後のウサギとカメ!」と声が裏返っちゃいました。もうちょっと高尚なタイトルかと思ったんですけど、「兄ちゃん、これどういう意味?」って聞いたんです。「ウサギとカメが競走して、油断してウサギが負けたっていうふうに世間ではそうなっているよね。すると、油断しちゃだめだっていうふうになっているけど、親鸞聖人はその後どう生きたのかということを僕たちに導いてくれているように思えてならん」。負けたウサギはその後どう生きたのか、そして勝ったカメはどのようにして歩むのか。

それは、先ほどみなさんにお伝えし忘れましたが、「正」という字は、まず立ち止まるという意味があるそうです。失敗したりくじけた時には一度そこに立ち止まったらいいんだよ。そうして、そこから新たなスタートラインをくださる、これが「正」の大切な意味だそうです。兄はそのことに気づいて「その後のウサギとカメ」を兄なりにずっと、小説を書いていたそうです。

そして兄は私の顔を見てこう言いました。「俺な、親父が亡くなって、ご門徒がすべて去って、でもおまえ、積極的に京都へ行ったよな。俺、おまえがうらやましかったんや。俺だってな、寺の長男として何かせなあかんなと思ったんや。でもな、この身体が動かなくてな、しんどくってな、苦しくってな、俺、部屋の中でずっと泣いとったんや。苦しかったんや。つらかったんや」って涙をポロポロポロポロ流したときに、「つらいのは私だけじゃなかったんや。兄ちゃん、この部屋の中で毎日叫んどったんや。そうか、そうか」と兄とようやく向き合えるようになりました。そして、兄は私の顔を見てこう言ったんです。「おまえ、自分の力で坊さんになったような顔してるけどな、坊さんをさせてもらっとるんやからな」と言われた時にドキッとしました。私は今の今まで、自分の力で坊さんになって、そしてこの寺を自分の力で復興しようと思っていたんです。

でも、きっかけは松竹芸能でした。松竹芸能で、私は「東京に出たい、東京に出たい」と言っても東京には出られませんでした。それは挫折です。そして、先ほどみなさんに、私は九州には亡き父の思いを継ぐために帰ったって、偉そうなことを言いましたけど、正直言うと嘘です。本当の気持ちは、「しゃあない、あとは坊さんでもなるか」そう思って帰ったんです。そして帰ったときに──縁というのは良縁と逆縁があると言いますよね──いい縁にも遇いながら、自分にとってつらいつらい縁にも遇いながら、プラス・マイナスをバチバチバチバチ当たらせていただきながら、ビリヤードみたいなもんでカンカンカンカン当たりながら、ようやく坊さんさせてもらったんやなということを、兄の一言で学ばさせてもらいました。

無駄なことは何一つない

そんな時に──人間、タイミングってあるんですね──一本の電話がかかって来ました。「川村、久しぶり、オレオレ」って言うんです。オレオレって、オレオレ詐欺じゃあるまいし「誰?」って言うたら、「松竹芸能時代、ほらオレや、落語家目指したオレや。オレな、落語家さっぱりでな、今な、テレビ局の制作のな、ディレクターやってんねん」て言うんです。「へえ、○○君、ディレクターなんや。ところで何?」「なあ、おまえ、寺の子やったら地域の情報、結構知ってるやろ。九州に困ってる家ってどこかないか」って聞くんですよ。「困ってる家?うちの家も困ってますけど」って言ってみたんです。「なんで」って言うから今までのプロセスをお話ししてみました。「おもしろい。つぶれた寺を兄妹の坊さんが復興するという人間ドキュメントを作ろう」ってことになったんです。それを聞いてた母がね「まだつぶれてないから」とか言って怒ってました。「まあ、まあ、そんなことは大げさにいきましょう。それぐらいせな視聴率取れませんから」ってなって、いよいよ収録の日、ディレクターが「ねえ、西蓮寺に特徴ってないかな。1時間番組として持たないんだよね」何か画的に特徴はないかって聞くもんで、「兄がこんな小説書いてますけど、ものになりませんか」って見せてみました。「『その後のウサギとカメ』か、おもしろい。お寺といえば人形劇。何か手づくりのものが合ってる。ウサギとカメ、急いで作ってよ」って言うんです。それで私は手づくりが好きだったもんですから、即席でウサギとカメの人形を作りました。でも、2匹です。1匹は私ができたとしても、もう1匹だれかがしないといけません。そこで兄にお願いしたんです。「兄ちゃん、いきなり境内に出るのはしんどいかも知れん。ステージを作るから手だけ、兄ちゃん、動かしてくれん?人形劇せん?」って声かけたんです。すると兄は、自分の作品です、「わかった、顔を出さなくていいんだったら、手だけ出す」って言ってくれたんです。

そして境内に出て二人でいよいよ人形劇をしようとしたんですが、誰も出入りのない寺ですし、私は無意識のうちにマイクを握ってご近所に呼びかけました。「ご近所のみなさん、はじめまして。私たち、西蓮寺の兄妹僧侶です。今から仏法人形劇『その後のウサギとカメ』を始めます。どうぞお集まりくださーい」って、大きな声で何度も何度も呼びかけました。何十年前に「アンパンマンショーですよー」と言ってる自分を思い出しました。あの時「無駄なことやってないかな。こんなことやって何の意味があるんやろか」と思ったんですが、無駄なことなんか何一つないんですね。すべて、やはり「ご縁」という糸──左は糸へんです──によってつながっているんだなと思いました。

そして、放送が終わった夜10時、お寺をピンポーンって誰か鳴らすんです。誰かなと思って出て行くと、白髪の男性がスーツを着てずらーっと並んでるんですよ。どなたですかって聞くと「あんた、わしら覚えてないか。わしらな、西蓮寺の門徒総代だったんや。今日、テレビ見てびっくりした。門徒ひとりもおらんようになっとったんでな、申し訳ない。実はな、あんたんとこの父ちゃん、住職と人間関係うまくいってなくてな、亡くなったと同時にこりゃええ幸いと思って他の寺に移ったんや。でも、今日、テレビ見てな、うちら反省したんや。個人的な感情と仏さんのこと一緒にしちゃあかんて思ったんや。今日からもう一度この西蓮寺に帰ってきていいですか。よろしくお願いします」頭を下げられました。私はまさか昔のご門徒が戻ってくるとは夢にも思いませんでした。そして私は涙ながらに「お帰りなさい」と迎えさせていただきました。

すると不思議なことに、兄のひきこもりが治ったんです。兄は自分の作品を発表することによって「あ、これが俺なんや。これがあったから、ひきこもりがあったから、実は俺としてこの作品が書けたんや」。でも、兄は今までひきこもりを経験しているときには「こんなのは俺じゃない。同級生はみんな結婚して、子供にも恵まれて、そしてがんばってるのに、なんで俺はここにおるんや」と自分を責めていました。しかし、「その後のウサギとカメ」を発表するには、さまざまな挫折を経験しているからこそ、このひきこもりでも経験させてもらえんと書けてなかったんや」というところに目が開かれた時に、兄の自我の殻がポーンと割れたんですね。そして、兄はいい意味で開き直りました。今はお寺の住職になって、またびっくりするんですが、売れっ子講師になってウサギとカメをテーマにいろんなところへお話ししに回ってるんです。

そんなときに、私は兄に聞きました。「ウサギとカメのその後って、結局どうなるの」って聞いたんです。今からその話をしますと2時間ぐらいかかりますので、結末だけお話ししますね。ウサギはなんで負けたんでしょうか。それは、カメを見たからです。比べたんです。「こんなノロノロ、のろまのカメに負けるはずがない。だったら、一休みしたっていずれか追い越せるやろう」勝手に自分で答えを決めたんです。ある程度、自分はこうやって行けるやろうという、まさに自力の世界です。そして、カメに勝つことを目標にスタートを切ったんです。でもカメは、最初からウサギなんか見ていません。カメの人生は、ウサギに勝つことが目的ではないんです。

私という道をひとつ掲げ、そしてコツコツコツコツと──ひとつの道ですね、ろうそくにあるひとつの芯、これが宗教という教えです。これを宗(むね)にして──一歩一歩、歩みました。そしてある時には一休みして、今の状況、今の流れをしっかり観察して、そしてコツコツコツコツと歩いてた結果、たまたま勝ってただけなんです。

私たちは幸せになるために生きているんじゃないんですね。あの人に認められるために生きているんじゃないんです。幸せっていうのもね、みなさん、これは状況によって変わるってこと、ご存じですか。

たとえば、今ここにお水があります。ここに──どなたか100万円ほど持ってる人いませんか──じゃあ、まあ、ここに100万円あるとします。さあ、どちらに価値を置きますか。私もそう。目の前に100万円置かれたら100万欲しい。これ、みんなそうよ。ここにあれば文句なしにもらいます。では、今度はみなさんが砂漠の中に迷いました。コンビニなんか何もありません。飲まず食わず3日間。さあ、100万とお水、どっちが大切? どっちを選びますか? そうよね、100万って何の価値もない。(札束で)扇ぐくらいできますよ、暑い、暑いって。でも、コンビニないから100万でもの買えないんです。そうすると、この一杯の水が「ああ、命拾いした。幸せや」というように、私たちの幸せって、いい加減なんです。

一分、一秒、また明日になったら、これが大切や、あれが大切や、病気が治ったら病気よりこっちの方が大切や、病気になったらやっぱり健康が大切や、コロコロ、コロコロ、コロコロ、変わるんです。そういった変わる私たちを阿弥陀さんはほっとけませんっておっしゃるんです。だから一回教えを聞いたら二度といいやじゃなくて、何度も何度も、何度も何度も、くり返し繰り返し、聞かせていただくということ。ですから「聴聞にきわまることなり」(『蓮如上人御一代記聞書』/『真宗聖典』889頁)。「一回聞いたからいいわ」というのは、これは本当にあてにならないんです。

実は、正念寺の義理の父が──だいたい父は近くのお寺さんに毎年報恩講にお話に行ってるんですけど──父のお話のネタって一つしかないんです。同じネタを毎年してるらしいんですよ。すると最近、ご門徒さんから言われた、「ご住職、今年の話がいちばんよかったですね」って言われたそうです。そのように、私たちは一緒に聞いたってまたどこかで忘れるんです。今もこうしてお話を聞いていただいたって、懇親会になって酒でも入りゃコロッと忘れてるし、家に帰れば「今日、何の話やったかいな」ということになるように、私たちは何度も何度も聴聞を重ねて、そして「そうや、そうや。これが私でございました」と自分自身を自覚させていただくことしか、私たちにはできないと思います。

完璧な人間って、いないんですよね。だから「絆」っていう字はね、糸へんに半分っていう字に見えますよね。あれは「私は半人前なんだ」というように見えます。人間は完璧になったところから、人にも頭が下げられん、ましてや仏さまに対してだって「私は別に下げる必要ないけど、みんな下げや」という自分になってしまうようなところがあると思います。そうじゃない。私もこうしてみなさんと出遇わさせていただいて、人の間に生きさせてもらって、人間にさせてもらうんやなと思ってます。ですから私も、兄との出遇いによって、ようやくわが身を振り返ることもでき、いろんな先生方・先輩方のご縁によって、ようやく「ああ、私ってこんな人間なんや」と振り返ることができたかなと思っています。

ひとつ、みなさんに今日ぜひこの場で知っていただきたいことがあるんですけれど、兄は、そういったひきこもりはずっと長く続いていました。18歳の時に一度、嫌々でも専修学院に入学したんです。でも、入学した、入学式の日に飛んで家に帰ったんです。母は(入学を)喜んだんです。入学式に出て、そして宣誓文を読み上げるんです。読み上げた後にすぐ帰ったんです。母は学校へ行ってくれたと泣いてたんですけど、帰ったもんでびっくりして。すると学院長が「川村君の席、残しておきましょうね。教科書も残しておきましょうね。いつか帰ってくるかも知れませんね」って、学院長のお気持ちで兄の席は残されて、教科書も真新しいものが残されたまんまでした。それから数日後、遅れて入学した学生さんがいました。その学生さんは「ここは川村さんという人の席なんだけど、今、ちょっと事情があって実家におる。いずれか帰ってくるまで、この教科書と机はあんた使っとっていいからな」って言われたそうです。その方、「いつ帰ってくるんやろ」と思ってヒヤヒヤしながら勉強してたんですって。そして、兄は、その年は帰ることがありませんでした。そして、兄は10年後に専修学院に入学したんです。

そのヒヤヒヤヒヤヒヤしながら教科書を使ってくれてた人が、ここにいる田口(弘)さんなんですね。不思議なご縁です。兄が学校に行かなかったその本で、こうして立派なお坊さんになられたんですね。恩を着せるわけではないですけれど。本当にご縁だな。それを兄に伝えると「へえ、あの田口さんが」と感動していました。そして、兄は、今は精力的にいろんなところでウサギとカメをテーマにしてお話をしております。

私自身はというと、今、悩みを持ってる方というのはたくさんいます。その悩みは2つに分けて、人前で「悩んでまーす」って言える人と、人前で悩んでいることさえも言えない人がいます。こうしてお寺に来ていただけるというご縁もあるんですが、お寺に行けないっていう方もいるんです。そういった方たちは、ネットの中でしかなかなか出遇うことができない人もいるんです。さまざまな、いろんな苦悩、いろんな挫折感、人間関係の溝ができて人と出遇えない、兄みたいにひきこもりを経験している人ってたくさんいます。すると、ネット上の呼びかけから、ネットの中で出遇うことしかできない人もたくさんいるんです。私も当初、坊さんがネット上で法話して何になるんやという批判は受けました。しかしそれもわかるんです。みなさんとこうしてお顔を合わせてコミュニケーションを取ることもわかるんですが、時代です。その中で、毎日200通ほどの悩みメールが来ます。これは教化事業のひとつだとして、悩みと向き合っています。その方たちは、誰にも言えません。ほとんどメールの9割方は匿名で来ます。「私はピノキオと申します。名前は言えません。ある会社の社長です」「私は○○寺の住職です」「坊守です」とお寺さんも悩みを持ってはります。そういった方たちに私は「あなたは○○さんですね」と聞くことはせず、悩みの中身に向き合ってます。そして、答えを出すことはできません。その人の悩みと向き合うことしか、私はできません。「何でつらいんでしょうね」「何でこんなにイライラするんでしょうね」絡まった糸をほぐすように、私なりに一通一通返信をさせていただいております。そして、私が上から目線でもって人を諭すということでなくって、とことん、私の失敗談を書かせてもらってます。「あなたもそうだったの。私も実はこうだったんだよ」と自分の恥をさらすことによって「えっ!意外に妙慶さんってアホなんですね」という返事が来たりもするんですけれども、「そうやねん、アホやねん」って言いながら返事をして、コミュケーションを取らせていただいております。

ですから、みなさん、毎日生きる中で知識も大切だと思います。もちろん、生きる中での知恵も大切ですが、自分に本当に備わっている感覚をどうか取り戻して欲しいなと思います。人間は、大人になればなるほど、若いときにはこうなりたい、こういうこともしたいと期待を持っていたんですが、だんだんいろんな経験をしてくると「人生、こんなもんや」と、すべて答えを持ってしまいます。でも、お浄土に還るまでわかりません。

ぜひ朝起きて空を見てください。「今日はどんなことがあるのかなぁ」と今日の一日に期待を持って生きてほしい。感覚がなくなると「また同じ朝が来た。朝飯食って昼からこの仕事して、またお昼ご飯作って、夕飯作って、後は薬飲んで寝るだけや」そうなったら、一日があっという間に終わりますし、感性もどんどんどんどん失っていきます。そういう意味で、老け込んでくると思っています。

見た目は老けます。私たちは、しかたがありません。でも、心だけは、私、老けないと思っています。心はどんどんどんどん使ってください。感じて動かす。これが「感動」って言います。どんなことで、感動していける人であってほしいなと思います。若い人が「こうなんや」「ああなんや」と言っても、「あんた若いねえ、何もわかってないね」じゃなくて「そうなの。私、その感覚はすごく見習うわ」っていうふうに、年齢を超えて向き合っていただきたいなと思います。

人生の中で、なぜ年上が、先生が必要かと言うと、今まで歩いてきた道を「こうだったんだよ」「ああなんだよ」と導いてくれる。だから私たちは生きる中で怖いものはないと思います。なぜなら、親鸞聖人は歩いてくださった道を、そのまま信じて、お念仏をいただいて生きさせていただく、私はそれだけでいいと思います。「ホンマでっか」「ホンマかいな」と疑いながら、私たちはつい(世間的)価値のある方に行こう行こうとするんですが、でも、実際、親鸞聖人が命を懸けてこのことばを残してくださいました。それを信じて生きさせてもらったらいいのかな。そう思っております。

これから未来はないというような表現をなさる方がいるんですが、私は今の時代だからこそ、何か希望が持てるような気がいたします。新たに原点に戻って、この地球上に生きるひとりひとり、もらすことなくともに仲間として出遇っていけるのかいけないのか、これからの私たちの出遇い方ではないかなと思っております。こうして、みなさん、貴重な時間ですね。ともにこの本堂で阿弥陀さんと出遇う時間を私自身もいただきましたことを本当にうれしく思っております。今日は私の恥さらしの話をさせていただきまして、またあらためて懇親会や語らいの時間の中でコミュニケーションを持てたらいいなと思っております。

今日はありがとうございました。

(文責: 蓮光寺門徒倶楽部)

川村妙慶先生

Index へ戻る ▲