私のお寺には、小さな竹やぶがあり、毎年4月になると近くの園児がタケノコ掘りにやってきます。無駄を省き合理化された現代は、人間と人間、人間と自然を分断してきたといえます。タケノコ掘りには自然と戯れ、皆で協力し、皮をむいて時間をかけ調理する喜びをとり戻そうという願いが込められています。
しかし、寺のある東京都葛飾区は放射能汚染が高い地域と指定されました。そこでタケノコの汚染具合を調べてみると、セシウムが68ベクレル検出されたのです。基準値の100ベクレル以下でしたが、園児のことを考え、園長先生と相談した結果、掘るだけにして食べるのは断念することにしました。
私は、掘っても捨てるしかないタケノコを見ながら、原発を恨みました。「何ていうことをしてくれたのだ」との怒りが込みあげたのです。しかし、次の瞬間、知らず知らずのうちに経済的豊かさをよしとし、原発を支えてきたのは私自身ではなかったかとの思いがよぎりました。私も加害者の一人なのです。さらに原発を批判し、東京電力を批判している私が、もし東電の幹部だったら同じことが言えたであろうかとの思いにいたって、あぜんとしました。立場が違えば善悪の基準は違ってしまうのです。終始徹底できないのが人間存在の悲しさなのでしょう。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞の言葉があります。人間は縁によっては何を考え、何をしでかすかわからない存在、つまり「業縁存在」であるというのです。以前は、この言葉が大嫌いでした。何があっても動じない自分を作り出さなければ競争の激しい現代では生きていけない、親鸞の教えは軟弱であり、現代にそぐわないと。
タケノコの話でもわかるように「業縁存在」は実は私そのものなのです。教えの言葉は頭で理解するのではなく、わが身を通してうなずくものです。そうすると、進歩発展とか努力意識にがんじがらめになっていた私自身から解放され心地よい風が吹いてくるのです。「愚かさ」を自覚すると、真に現実と真向かいになって生きる道を新たに歩き始めるのです。
誤解のないように申し上げます。縁次第だから何をしてもいいのではありません。起こしてしまった過ちを絶対に忘れてはなりません。要は「存在」を問題にしているのです。業縁を生きる人間存在の悲しみや痛みが「愚かさ」の自覚を促します。愚かさを自覚すると、新たな世界が広がり、今までと違った生き方が始まるのです。
「已生の罪業」とはすでにまちがった行為をしてしまったことですが、「未生の罪業」とはそいう行為をしかねないということです。生きることで知らず知らずに犯してきた罪、そういう悪や罪を犯してしか生きられない「存在」そのものが問われているのです。現代に生きる私たちは、自分が自分でない感覚のまま何かにせき立てられるように生きています。常に眼が外に向き、肝心の自分自身を見つめる眼を失ってしまいました。
「3.11」は対象化された人やものへの批判だけで終わってはならないのです。業縁存在としての人間そのものを深く見つめ、「愚かさ」の大地から再び立ち上がっていくことが願われているのでしょう。震災で被害を受けた人々はいうまでもありません。東電や政府関係者の人たちも含め、私たち自身も、すべての人たちが救われていくような救いがどこで成り立つか──。これこそが宗教的課題と言われるものです。政策、対策では解決しえない問題を問い続けることが、一人ひとりに求められているのでしょう。
「3.11」はさまざまな問題を私たちに投げかけました。しかし、あれから一年三カ月、人間そのものを問題にした語り合いはほとんどなされていないことが気になっています。「3.11」は何よりも根源的人間のあり方を深く見つめていく機縁としたいものです。それがあらゆることに向かい合っていく根本的な視座を作り出すからです。
東日本大震災によって引き起こされた原発事故は人類滅亡の危機を予感させるものです。私はもちろん反原発の立場です。仏教の教えをいただいているからではありません。仏教は賛成か反対かの答えはくれません。賛否を問う前に人間のあり方そのものを見つめるのが仏教の視座であり、その問いを深め、苦悩する人びとに寄り添ってきたのが仏教なのです。
親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と言っています。「何が善で何が悪だかわからない」と言うのです。私の立場からいえば、原発反対こそ善であり、善悪の分別もつけられないでどうする?と思うのが健全なのでしょう。しかし現実の人間のあり様を見ていく時、実に深い言葉であると教えられます。
福島では、被ばくのリスクがある子どもをもつ親御さんは心底苦しんでいます。子供を守るため避難できる人もいればできない状況の人も大勢おられるのです。ところが、避難することが「絶対的善」として語られる状況をたびたび見てきました。昨年末、安全宣言が出されました。宣言が本当か否かは、ここでは触れませんが、宣言が出たのになぜ福島に戻ってこないのか、戻るのが本当だという「絶対的善」が一方で作り出されます。福島で起こっている状況は私たち自身のあり方を深くえぐりだしてくれます。人間は善に迷う存在であり、人間そのものが闇であることを教えているのではないでしょうか。
熊本で漁業を営む緒方正人さんという人がいます。緒方さんは水俣病の認定申請に命をかけ取り組むなかで、「人間とは何か」と問われたのです。水俣病を引き起こしたチッソや国の責任はもちろんあるが、それだけではとらえ切れない人間の責任があることに気づかれたのです。
「毒とわかっていて十年も猛毒をたれ流すなんてことを自分は絶対しない。そんなことをするのは人間じゃないという(絶対的)善の立場にいたが、もし自分が加害者のチッソ側の人間だとしても同じことが言えるかを問うてみたら自分の根拠が崩れてしまった」と語っています。水俣病事件の根源に人間の「業縁存在」があることを感じとられたのです。人は縁によって何をするかわからないという深い悲しみからです。
緒方さんは、「今、私たちが打ち破らなければならないのは、政治的イデオロギーや体制の問題ではないし、立場を越えて、お互い人間として出会い直すこと一点に尽きる。そのことで、自分も何か憎しみからひとつ抜け出たという気がする。今回の原発事故でも誰もが加害性と被害性を持ち合わせざるを得ない」としみじみと語っています。
人間の愚かさに帰ってみれば、存在の悲しみは、私の悲しみであり、同時にあらゆる人々の悲しみです。そこに「ともに」という世界が開かれ、人間が回復されていく契機になってゆくのでしょう。
原発に反対する私も同様です。経済的な豊かさを求め原発を支えてきた愚かな人間であったという慚愧の心を失っていくと、わかったつもりの善に立ってしまうのです。仏教では、これを「無明」といいます。無明とは、わかったことにしている暗さです。
私たちは善悪を見極めていけるという無明性を持つものです。これを「自力作善」と呼びます。縁を無視して努力すれば何でもできるという傲慢さであり、人間のあり方を無視した妄念妄想です。努力を否定しているのではありません。努力する人間のあり方が問われているのです。
「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」という親鸞の教えは、実は無明の人間そのものに深く呼びかける言葉です。無明であったとの愚かさに立ち返り、わからないままに学んでゆくことだけが人間を解放してゆくのです。そういう自覚が救いにつながり、そこから本当の反原発が始まるのでしょう。
「3.11」は、何よりも根源的人間のあり方を深く見つめていくことの大切さを問いかけているといえます。進歩発展、努力こそが善と教えられてきた現代人にとっては大きな機縁です。人間はどこまでも愚かな存在であり、その愚かさを自覚することから、本当に現実を引き受けていく智慧と意欲が与えられるのです。