「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」のオープニングセレモニーが始まる前日におこった東日本大震災・原発事故は、3.11として人類史に刻み込まれることになった。まさに産業革命以降の最も大きな歴史的転換がおこりうる今を生きていると感じる。
3.11以降、様々なことを学び、考えさせられたが、私自身が特に問われてきたことは、特に原発事故で露わになった「人知の闇」の問題と、人間にとっての「生きる場」の問題であった。
原発事故は「人知の闇」が最たる形で表れたのであって、原発事故の解決は緊急の課題だが、それを支えてきたのはまぎれもなく人知そのものであるから、私たちのあり方全体が問われていることに気づかなければならない。人知そのものを見つめ直すことが普遍的な問題だろう。人知に立脚した善悪の思考に迷う現代人にとって、そこに「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と言い切る親鸞の「凡夫の自覚」が、現代に大きな示唆を与えているのではないだろうか。そんなことを思う時、私と同じ課題を持っていた安冨歩氏(東京大学東洋文化研究所教授)と語り合えたことは本当に大きかった。
安冨氏は「原発事故が私たちの生活を根底から問い直させる、たいへん重要な意味をもっていて、ここに向かい合うことがなければ、たとえ原発を捨てたとしても、私たちの生活は何の変化も受けないことになります。つまり原発に賛成か反対かの背後にある『人知の闇』にまで切り込まないと問題の本質が見えなくなるのです。しかし、『人知の闇』、自分の盲点に気づかなければならないのですが、盲点を以て世界をみている自分がその盲点に気づくことは、原理的に不可能なのです。そのなかで私が出遇ったのが親鸞の教えです。罪を犯さないではいられない人間の『愚』そのものに気づかされることが、救いのゆえんであり、さらにその救いを信じられないという『愚』に気づかされることさえもが、救いのゆえんだとする親鸞の他力思想に衝撃を受けました」と指摘されている。
如来の他力回向による「愚」の自覚こそが、混迷の現代において本当の救いを提示していることをきちんと伝えていくことは宗教者としての使命であると感じる。実は、今秋に安冨氏と共著で本を出すことになった。詳しくはその本を読んでいただければありがたい。
次に「生きる場」についてであるが、それは、人間が存在する上で切っても切れない関係にある。瓦礫と化した故郷で、なおそこに生き続けようとする人たち、また原発により故郷を離れなくてはならない状況のなかで、自分が育った故郷に必ずもどりたいと強く願う人たちを見るとき、人間は生きる場がなくては生きていけないのだという当たり前のことを本当に大事にしてきたのだろうかとあらためて問われることとなった。家畜が全滅し、故郷が奪われることによって、死を選ぶ人たちに、生きる場を奪われた深い悲しみがあることを感じずにはおられない。大震災、原発によって、人間にとって生きる場、とくに「故郷」がいかに大切であるかをあらためて痛感させられた。
7月に、中島岳志氏(北海道大学公共政策大学院准教授)と対話する機会を得たが、中島氏はまさしく「生きる場」の問題を提起されていた。中島氏は、「大地震がおこり、それに伴う原発事故による深刻な状況のなかで、その最大の問題は多くの住民のトポス(生きる場)を奪うことです。トポスが奪われると、存在の根拠も破壊され、それは現在にとどまらず、過去(土地の来歴)も未来(継承)も破壊されてしまうのです。トポスとは関係性をふくめて、その人が生きられる場所のことで、人間の実存と不可分の存在で、簡単に取り換えることはできません。ところが、原発はそれを根こそぎ奪うのです。原発を守ることよりトポスを守ることに目を向けることが最優先です」と指摘された。故郷が放射能で汚されることは、存在そのものを否定されたに等しいということなのであろう。中島氏も親鸞に出遇った識者の一人で、「人間は永遠に不完全な存在であり、理性や知性には限界があるにもかかわらず、『原発は安全だ』というのは傲慢な態度です。常に不完全であると言う謙虚な自覚を持ち続ける視点を与えるのが、親鸞の教えの本質であり、親鸞の悪人、愚者の自覚に伴う自力に対する否定的な態度は、私の思想的枠組みに作っていて、大きな影響を受けています」と述べられている。
ところで、仏教にふれると、あらゆるものは常住不変ではなく、移ろい変わっていくのが道理であると教えられる。トポスを大切にしていても、現に震災、原発事故によってトポスが崩れてしまっているし、あらゆるトポスもやがて崩れていくのであれば、虚しさすら感じてしまうのであるが、それを超える道を指し示すのが仏教ではないか。
安田理深氏が浄土を「存在の故郷」と表現しているが、生きる場の大切さを説いたのがまさに我々がいただいている浄土の教えである。「仏身」と「仏土」(浄土)は身土不ニであるが、あえて身(主体)と土(環境)に開いたのは、場の問題を通して、人間の根本問題に応えてきたからである。「浄土」とは実体ではなく、まして死後の世界でもなく、本願が南無阿弥陀仏と言葉になって一切衆生を目覚ますはたらきそのものである。それを「浄土」という場所があるがごとく呼びかけるのは、生きる場の大切さを説くためであり、その場は人間の迷いを翻して生き抜く「真のよりどころ」として示されている。「浄土」という仏土において、如来が一切衆生を救おうと、つまり、そこに自覚を伴った真の救いが成り立つことを明らかにしているのである。
大震災によって崩壊したトポスのなかで、その悲しい状況を超えて、なお生きようとする人々のなかに、ある17歳の女性の生きざまを知った。家族全員が津波に流され、家も思い出の品もすべて流され、故郷は壊滅している。にも関わらず、彼女の眼は生き生きとして明るかった。彼女は、手に行方不明の母親のブレスレットをしながら、瓦礫の下敷きになった父親のいちご農園を見つめ、「高校を卒業したら、ここでいちご農園をやりたい」と語っていた。どこかで彼女は両親から自分の存在をまるごとつつまれていること、かつ生き抜いてほしいと願われていることを感じているのではないか。こんな絶望状況なのに、なぜこのように立ち上がっていくことが人間におこるか。『歎異鈔』第一章に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」とある。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」と言っている。人間が「おこす」のではなく、人間の上に「おこる」のであって、これは他力回向に他ならない。彼女がおこしたのではなく、苦悩とともに彼女の意識よりもっと深いところからの願いに呼びさまされていると言えるのではないか。彼女は人間の意識としてある幸せになりたいとか、復興したいということすら超えて、無条件に苦悩の現実を受け止め、立ち上がっていると感じる。彼女が願うのではなく、願われているはたらきに導かれている。両親につつまれているということは、両親のかたちをとって如来の本願力がはたらいているのだと感じずにはおられない。このことが曽我量深氏の言う「純粋未来」ということではないか。未来とは向こうからのはたらき、願力回向である。自分の存在を確かなものとして語るのは未来といっていい。苦悩と同時に人知よりもっと深いところに、いのちの叫び、願いがはたらいていて、これこそが人間の本心、本音だと見抜いたのが如来の智慧の眼である。「その本願に目覚めよ」と呼びかけの世界を「浄土」として、人間の究極の「生きる場」として提示しているのではないか。17歳の女性の話はサクセスストーリーを語るものではない。PTSDに悩まされる人たちも、自分でいのちを絶っていく人たちにも、その苦悩の根源に願いが生きている。人間であるならば根源的に誰もが願い、願われているという点において、どんな人間も尊いと言えるのではないだろうか。存在の尊さである。このことを現代は忘れてしまったのではないだろうか。
親鸞は「生きる場」は必ず移り変わっていくから本当の場ではなく「浄土」こそ本当の場であるから、今の「生きる場」を捨てなさいとはまちがっても言わない。親鸞は、「浄土」の功徳にふれるならば、苦悩の場に堂々ともどって生きていく道を切り開いたのである。大切な自分の生きる場に帰っていく力をいただくのである。迷いがなくなるのではない。担っていく力をいただくのである。それは「安心して迷える道」である。
苦悩に向かい合い、どうにもならない絶望を感じつつも、この苦悩と同時に、人間の存在の根源から、その苦悩を突き破っていくような深い願いに突き動かされて立ち上がっていくことがおこる。そういう願いをどう自覚できるか、そこに本願がはたらく「浄土」を真のよりどころとせよと呼びかけられてきたのであろう。「愚者になりて往生す」とは、愚者を救うのが本願ということではなく、本願に照らされて明らかになった人間のあり方である。愚者になるとは本来に帰ること、事実に頭が下がった人ということである。「愚」の大地に立ってみれば、以前とはちがった歩みがはじまる。迷いの構造を翻して、自分自身をとりもどすことが救いではないか。
大震災・原発事故を通して、人間がもう一度問い返され、そして「浄土」が何を呼びかけているのかを明らかにしていくことがいよいよ求められているのであろう。まだまだ私には思索が足りない。もっともっと聞いていかねばならないことであふれている。どこまでも終わりはない。