あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

門徒随想

私には、生後直ぐから少しばかり足に障害が有った。それでも子供時分からいわゆる健常者の子供達に混って過して来た。一緒に遊びいたずらを重ね過す中で、みんなと一緒に出来ると云う事だけで、周りの大人達からほめられ感心されたりして来た。

健常、障害、賢愚、優劣、勝負、そんなボーダーラインの上を行ったり来たりしながら過して来た。

そんな迷いの中で二十代、三十代、と仕事上の劣等感におそわれ、苦しんで一人前の口がきけ無い苦痛を味わった。それでも実際は、ちゃんと逃げ道を用意して、いい加減に過して来たと今にして思われる。

四十を過ぎた頃親の縁によって、光明寺のご住職と出遇う事が出来、私の聞法の場を開いていただいた。そして、蓮光寺様とのご縁をいただく事が出来ました。

真宗の教えに会う前は宗教の話と云えば、現世利益、罪福信、そんなものに頼るかと宗教を拒否していた。それが死んだら極楽往生、仏になると、本来の理も知らぬ中で漠然と思えていた真宗と出遇えた。

それを喜びながら講座、聞法会に向う内にこれも違っていた、こう聞いたつもりも違っていた、これも自分の思い込みに過ぎないと、知らされる事が多く感じられるようになった。これではいつになったら分ったと思えるのか、分るそれ自体が間違いなのかと思えて来ています。

それでも私に聞法の場が開かれていると感じられる限り続けていきたいと思っています。

それにしても若い頃、夜業仕事が続き、時間が無い事も苦に思えていた。今仕事を離れ時間がたっぷり有る中で、朝起きた時のフッと思えてしまう虚しさはなんだろうと思う。

お寺様に伺うと旨い酒とすしが喰えることを覚えた。そして人と話し合える事も、続けそうです。

荒木正(釋正智) 64歳

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