2009年蓮光寺報恩講日中法要
2009年11月3日(火)
講師: 佐野明弘先生(石川県・光闡坊)
テーマ:「教えに遇う」
こんにちは。ようこそお参りくださいました。大事なご縁をいただきまして、この蓮光寺さんの報恩講のご聴聞の場にお呼び出しをいただきました。今回は「教えに遇う」というテーマでお話をさせていただきたいと思っております。
ご案内にもありますけれど、私自身、教えというものは学ぶもの、学んでいくものだと思っておりました。人間といういのちに生まれてきて、ものごころついてしばらくしましたら、何しに生まれて来たんやろと思う。あるいは死んでいかねばならないことがわかるわけですね。死んでいかねばならないということを知っておるのは、ひょっとしたら人間だけかも知れませんね。死すべき存在であることを知っておる。そうすると、死んでいくその人生を本当にどういただいていったらいいのか。何をやっても死んでいくとなれば、何かむなしいような気がする。それで、そういう自分自身を受けとめることがなかなかできなくて、これを教えによって自分をいただいていくことはできないだろうかと、こう思いまして仏道を学んだのです。まあ、言うてみれば、仏を学ぶことによって、理解することによって、自分を支えたいと思ったわけです。
ところが、なかなか難しいんですね。わかったことで自分を押さえようと思っても、現実が許してくれんのですよ。ちょっと安心したかと思うと、現実がやってきてですね、崩れてしまう。そういうことが教えを学ぶ上でぶつかることなんですね。必ずぶつかると思います。求めていったらうまいこといきましたっていう人はあまりいないですね。
今「正信偈」があがりましたけれど、七高僧と言って、インド、中国、日本の先輩方、7人のお名前が出てまいりますね。ほとんどの方がたいへんご苦労されています。
親鸞聖人も、ご存じの通り、9歳で得度され、29歳まで20年の間、ずっとどういただいていったらいいのかがわからなかった。仏道に入っていても、それが自分の道にならないのですね。どう歩んでいったらわからないということには、道の中におってもそれが自分の道にならないという苦しみがあるわけです。20年間ですから、わかったことも何遍もあったはずです。わからなんだら、まあ、2、3年でやめますわね。普通ね。ところが、こういうことかとわかってみても、それがまた崩れてしまうという、そういうことが何遍もあった。
比叡山から下りては、聖徳太子のご縁のあるところに籠もられるという、そういうこともございました。おこもりになって何をお祈りしていたのかというと、「やはり自分には道が見えません。どうか道を示してください。仏道にありながらそれが自分の道にならない。どうか道を示してください」ということですね。
親鸞聖人のお師匠さんの法然上人も、8つか9つの頃に、目の前で父親を殺され、そしてお寺に預けられ、43歳までやはり道が見えなくて、苦労されました。また、思いつくところを申し上げてみますと、善導大師も10歳で得度して、やはり29歳まであちらこちらへ先生を求めて歩き回られます。そのお師匠さん、善導大師が29歳で弟子入りした道綽禅師もまた、14歳で得度して48歳まで道が見えなんだ。それで苦しんだ方ですね。そのように、なかなか道を求めるというても、教えを聞いて了解しても、そのことが自分の支えになかなかならんもんです。
今「三帰依文」を申しましたけれど、そこに「無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し」──教えとは了解するものではなくて、出遇うものだと書いてありますね。そういうことを、真宗の教えを学ぶようになって、少しうなずかせていただいたようなところです。その辺りのことをお聞きいただこうと思っておるんですが。
三帰依文では、「百千万劫にも遭遇うこと難し」の「遇う」ということの内容を、「我いま見聞し受持することを得たり」としています。「見」とか「聞」というものの内容が「受」という字をもって示されております。この「見」という字も「聞」という字も、受動、つまり受け止めなんですね。「見る」ではなくて「見える」、「聞く」ではなくて「聞こえる」ということなんです。
自分の方から見るときは「観」という字を使います。この字は、昔は「觀」と書きました。口が2つ並んでいますね。東京には、渡り鳥は来ますか。来ませんか。うちの方には渡り鳥がやって来るんです。これは、渡り鳥が来て池に降りて口を開けて止まっている、鳥が並んでいるところを観る、そういうところから来ている字だそうですね。観察するとか、観賞するとか言いますね。どちらも、こちらから観るということです。
観察ということのおもしろいのは、じっと見ていると、はじめは見えておらなんだものが、見えてくることがありますね。それが観察のおもしろいところなんでしょうけど、観ているうちに見えてくる、つまり「観」ということが「見」という字において何か受け取るものがあるわけです。
「聞」もそうなんですが、音楽を聴くとか、人の話を聴くというときは、「聴講」と言って「聴」の字を使いますね。「聞」の方は聞こえてくる。音楽などを聴いているときも、聞こえてくるものを聴いているわけです。響いてこない音楽はうるさいだけですね。自分の中に響いてきたもの、届いてきたものを受けとめている姿ですね。
つまり、出遇うということの内容は、「見」と「聞」なんですね。本当は人間同士も出遇っていきたいはずです。ところがそれがなかなか難しいんですね。
悲しいことですが、自分の子どもに自殺されてしまった親御さんがおられますね。子どもが死ぬとき、たいてい家で死なれることが多いんです。家とか庭先とかね。そういうときに、親として何も見ていなかったと。この子の苦しむのを見ていなかった。あるいは何も聞いてあげられなかった。はじめて子どもがそれほど苦しんでいたということがわかって、本当は聞いてあげたかった。もっとよく見てあげたかったと思うわけですね。そういうところに、「見」とか「聞」ということにおいて、出遇うということの内容が示されるわけです。
出遇うと、その人が少し見えてくる。話をしていて、こんな人だと思っておった人が、自分の苦しい胸の内を打ち明けたりすると、それまでとちがったものが見えてきますね。そういうこと、ないですか。「見」と「聞」ということにおいて、自分に届いてきたところに出遇うということがあるのです。「受」という字も、受けとめるときに自分で手を出して受けとめるということではないんです。早くよこせ言うてね(笑)。
信心もそうですけれど、本願の名乗りを受けとめる、「本願名号信受」と言いますね。お正信偈だったら「行者正受金剛心」。正受、やはり「受」なんです。手を出して「ください」と言ってるんじゃないですね。
この「受」っていう字もおもしろい字ですけど、下の「又」っていう字は、もともと、手を表すんですが、上の「ノ」と「ツ」も手なんです。上から掴むときの手です。上と下から真ん中の「ワ」を挟んでいる。この「ワ」は何だろうと辞書で調べたら舟のことだと書いてあって「へえ」と思いました。受けるということは渡されるものがないと受け取れんのです。両手で舟を押し出しているんでしょうかね。渡してくることによって、初めて受け取れる。この字に「手へん」をつけると授けるという字になりますね。仏教でしたら「授戒」ということばもあります。授戒というのは、自分が受けるんだけれども、やはり向こうから授けられるものなんですね。こちらが手を出して受け取る前に届いてきたと、そういうことなんですね。
人間というのはおもしろいもので、自分というものを固めたいと思っているわけです。だから、思ったことがあると、他の人にまで「そうやろ、な、な」言うてね、そこまでして自分の思いを固めたい──ですね。私も「ですね」言うて、「うん」て言ってほしいわけです。そうやって自分を固めたいんですね。ところがね、人間というのは不思議なもので、固めていった自分で満足するかというとそうではないんですね。むしろ感動したりするのはどういうときかというと、自分の思ってもみないようなものに出遇ったときに感動するんです。自分が固めていたいと思っていた世界が、破られるとか開かれるときに「ああ」と言って感動するんですね。聞こえてくるとか見えてくるというのも、こちら側が思ったように聞いたり思ったように見たりしているような世界と違う世界が、開けてくるという意味があるわけです。いつも見ている同じ人なのに、そうでなかったとその人が少し見えてくるというのは、こっち側が開けたと言うことです。相手でなくてね。そういうことが出会うということの一つの内容でございますね。
教えを聞くということも、こちらが思ったように了解していくということではないんですね。これは非常に難しいことですけども、本当に聞くというのはどういうことかというと、真宗では「何にも聞いておらなんだ」とわかること。それが聞こえるということです。どうですかね。「わかったぞ」ということは、何も聞いとらんちゅうことです。「今日はいい話やった」「ようわかった」──それは何も聞いとらん(笑)。
信心も一緒です。信じておったつもりでいたけれど、何も本当には信じていないではないか。どうですか。手を合わしているけど、本当か。自分の思いで信じておったつもりでおったけれど、まったく信じられていないではないか。それが「信」ということが届いた証拠です。ですから、こちら側からつくり上げていくような信心ではなくて、向こうから届いてくる「信」なのです。それは、どんな「信」かというと、私たちの思うてることも、言うとることも、みな迷いの中やぞ、そのことを知らしめてくれる。そのことにおいて、そうやなあとうなずくのが「受」なんです。
どうですかね。人間というものはいろんなことに出くわしますと、苦しみますからね。その苦しみをとにかく、まず、取り除きたいと思いますね。特に、激しい苦しみがやってきますと、その原因になっているものを取り除いて、苦しみから解放されようと思いますね。その苦しみをなんとか克服しようとしたり、それができないとなると、なんとかそれを受けとめようとしたりします。例えば病に冒される。そうすると、それを何とか克服しようとする。それが無理なら、そのことを受けとめていこうとする。そう思いますけれども、受けとめられるくらいならいいですけど、受けとめがたいときには非常に苦しいですね。
こちらにいらっしゃる篠崎さんのご紹介でうちの近所におられる方が、うちへ訪ねてくださったんですが、乳がんなんですね。手術したんですけども、もうリンパに回ってしまっておる。ご存じの通り、リンパに回ると生存率が非常に下がるわけですね。そして、今年が越せるかどうかというような日々を送っておられるんです。毎週、癌マーカーの検査によって抗がん剤の量を増やしたり減らしたりしているのですが、その方が、やはり死が目の前に来て、下の娘はまだ中学生だし、どうしても死にたくない、なのに死ななければならないかもしれない。そう思うと、どうしても苦しくて仕方がない。そう思って、いろいろなところを訪ねた。そして最終的に私の地元にある仏教系の新興宗教に入会して、毎週行かれては、不安がやってくると祈祷をしてもらったんですよ、お金を積んで。祈祷をしてもらうと少し楽になったと言ってました。そのときの自分にはそれが必要だったと今はおっしゃいます。それを続けているうちに、もしかしたら祈祷で癌が治るかも知れないと思った。
ところが、その癌が治っても、ひょっとしたら、交通事故で死ぬかも知れないと、ある日ふと思ったと言うんです。そうしたら、今自分のやっている人生の送り方に疑問を感じて、それがきっかけになって篠崎さんと気持ちを通わせたんですね。
癌は治るかも知れない。一つの病は治るかも知れないけれど、病むべき身、死すべき身は変わらない。この問題は、その本人だけのものではないです。死んで欲しくない大事な家族が死んでいく。どれほど手を尽くしても死すべき身は変わらないわけです。そこに歎異抄で言いますと「たすけとぐること、きわめてありがたし」(歎異抄、第4章)ということですね。
お互い死すべき身を抱えている。そうである限り、ひとつひとつの病を克服してみても抑えきれないものを抱えているわけです。ですから人間というものの根底には、最後には「たすけてくれ」「たすけて欲しい」というものを抱えているんだと思うんです。ひとりひとりの人生の根底にある声。「たすけてくれ」「たすけて欲しい」というものを抱えているのが人間ではないかと思いますね。
阿弥陀仏が阿弥陀仏になる前の因の位を法蔵菩薩と申しますね。この法蔵菩薩が本願を建て、一切の衆生の救いを誓われたのは、救わずにはおられないものを衆生に見出だしたからですね。そこのところがお正信偈ですとね、「法蔵菩薩因位時/在世自在王仏所/覩見諸仏浄土因/国土人天之善悪/建立無上殊勝願/超発希有大弘誓」と書いてございますけれど、本願の出どころが説かれています。
私は非常におもしろいと思うんですけれども、法蔵菩薩が世自在王仏のお弟子さんになられ、私はすべてのものとともに救われていくような大いなる悟りの世界を開きたいんだ、そういう仏さんになりたいんだと願い、お師匠さんの世自在王仏に、何を聞き、どんな教えを習い、どんな行をしたらそんな世界が開けるだろうかと尋ねるんですけれども、教えてもらえないんです。ひとの答えくらいじゃだめです、あなた自分の願いに聞きなさいと言って教えてもらえない。そこで法蔵菩薩は、それならばいろんな世界を見せて欲しい、いろんな人の、あるいはいのち生きるすべてのもののいのちの姿を見せて欲しいと願い出たわけです。そうすると、その願いに応じて、世自在王仏が法蔵菩薩(そのときの法蔵比丘)に神通力を使ってすべての世界、すべてのいのちの姿をひとつひとつ、生まれたときからいのち終わるときまで、苦しみや喜びや悲しみを、その人やそのいのちが感ずるがごとくに全部与えたというのです。お経には、これを「ことごとく現じて与えたもう」ということばで表されていますね。見せたんです。現して見せてくれたんです。ひとつひとつの生きる姿をはっきりと見えるように見せてくれたんですね。
これもおもしろいんですが、二百一十億の世界のすべてのいのちの姿を見せたと書いてあります。この二百一十億と言うのはこの宇宙のすべての世界を言います。すでに滅びていった世界もあるし、これから生まれてくる世界もあるんですね。今、私たちのいる「ここ」も地球という惑星です。忘れておったでしょ。ここ、宇宙です。そして、この宇宙もやがて滅びると書いてあります。地球の寿命は、約50億年だそうですね。今、47億年ですから、地球ももうちょっとです。もうちょっと言うてもまだ3億年もあるんですけどね(笑)。太陽がだんだんでかくなってくるらしいですね。そして地球の軌道ぐらい飲み込んでしまうらしいんです。今は宇宙もまだ膨張しているらしいんですけど、これが収縮を始めるんだそうです。そして消えるんだそうですね。ご存じでしたか。
最近の物理学ではそう言ってるんですけれど、仏教でははじめからそういうことはもうわかっておるという。今、住んでいる一大宇宙を賢劫(げんごう)と言うんです。その前は、荘厳劫(しょうごんこう)という宇宙の時があったけれども、それはもう滅びて消えたんですね。そして、空空漠漠(くうくうばくばく)という時が過ぎ、ビッグバンが来て、そして今、賢劫と。この宇宙も滅びると、星宿劫(しょうしゅうごう)と言う宇宙がまた始まるんですね。その賢劫の中のすべての世界を、二百一十億と言うんだと、数えればね。
おもしろいでしょう。おもしろくないですか(笑)。私はすごくおもしろいなと思ってるんです。いつまでも続くと思っていたこの世が滅びるんだという。人類も滅びるし、大谷派も滅びるし、おもしろいと思いませんか。
だから、大事なんですね。そういう中にね、「たとい大千世界に/みてらん火をもすぎゆきて」(浄土和讃)ということばがありますけれど、滅びによって滅びないようなものをいただかんならん。「大千世界に満てらん火」というのは滅びの火です。この世界が終わるときに火に包まれる。その火を過ぎ行きて「仏の御名をきくひとは/ながく不退にかなふなり」(浄土和讃)と。滅びても、滅びない。滅びによって消え去るようなものではない。そういうものがあるんやという。おもしろいですね。
親鸞聖人が『教行信証』の化身土の本巻の一番最後に、最澄さんが書いた『末法燈明記』を引いておられるんです。そこにはこうあります。お釈迦様が亡くなると56億7千万年すると弥勒という仏がこの世に現れる。弥勒という菩薩が仏となってこの世に現れる。けれど、その弥勒仏もこの世を去ってゆくという。そうするとまたそれを受け継いで次の如来がまたこの世に出てくる。そうやって受け継いでいってこの世は終わる。おもしろいですね。まあ、おもしろがってもいられないので、話を進めます。
二百一十億の世界のすべてのいのちのすがた、いろいろですよ。今までの歴史だけを考えてみても、たくさんの戦争の時があって、私たちの学ぶ歴史というのは殺し合いの歴史ですね。そういう中にはたくさんの虐殺もあり、あるいは子どもを失う親の悲しみもあり、戦争によって飢饉が起こったり、いろいろないのちの姿があるわけです。そのひとつひとつを全部終わりまで、ことごとくそれを見せた。「現じてこれを与えたもう」─。はっきり見せたんですね。
ところが、おもしろいことに、見せてもらった法蔵は、見せてもらったのにこれを「聞いた」と書いてある。見たってなんで言わないのかなあと思ったのですが、やはり「聞いた」のでしょう。いのちの声を。たくさんのいのちの根底を貫く声を聞いたのですね。その声を聞いたところに、一切の衆生と呼ばずにおられんような衆生を見出だした。いのちの姿を見出した。ですから、聞いたところに見えてきたものがある。お正信偈の「覩見」というのは、聞こえてきたところに見えてきたものなんです。現じてもらって、見せてもらったものを見たというのではないんです。現じてもらったものを聞いた。声なき声、それを聞いた。そこに初めて見えてきたものが衆生である。だから、私たち以上に本当に私たちを見出しているものを如来という。人間を本当に人間として見出だしているものを如来という。
かえって人間が人間を見失っておる。私たちが、私たちを見失っているでしょう。だから「自分探し」いうことが起こるんですね。
その私たちを本当に見出だして──見出だすと言うことは受けとめるということです──呼びかけてくる。本願というのは、本願がいったいどこに立脚しているかと言ったら、如来が衆生を見出だしたところに本願は立脚しているんです。本願は衆生を見出だしたところに生まれて来たものなんです。だから、法蔵菩薩は「皆悉覩見」(仏説無量寿経)、みなことごとく見た。ひとつのいのちの姿も漏らさず見た。お経には、すべてのいのちの姿を見終わったそのときに、深い静けさが包んだと書いてあります。その静けさというのは祈りの深さなんですね。
人間の悲しみの根底には深い祈りがあって、どのいのちの姿がいいとか悪いとか、どれが幸せだとか不幸だとか、そういうことの言えない、どのいのちも願わずにはならないような、厳粛さと尊さを抱えておる。それを見出しておるのが如来ということなんですね。そして、法蔵は、その深い祈りの中に、五劫思惟に帰るわけですね。ずっと深い瞑想に入る。思惟、深い思惟。祈りそのものの深さに帰って行くわけです。そして、その祈りがことばになるのに五劫という時を建てるわけですね。
卑近なたとえですけれど、母親が子どもをお腹に宿す、そうするとたいていは私自身もそうでしたたが、生まれてくるより先に子どもが宿った、そのときすでにわが子として見出だすわけです。生まれてくるより先から、見出だすということはわが子として受けとめているということです。そして、生まれてくることを願う。生まれてくると、名をつけ、元気に育ってくれることを願って、おむつを替えたりお乳を飲ませたりいろんなことをする。そうやって見出だし受けとめていることの中に、子どもは全体を受けとめて「お父さん」「お母さん」と呼び返すわけですね。そこにおいて、子どもは子どもであることを初めて成就します。
人間というのは放っておいたら人間にはならないのです。ご存じの通り、オオカミに育てられた少女は、ついに人間のことばも身につかず、人間の行動を取ることができずに、オオカミとしての生涯を終えてしまった。人間というものは人間によって育てられてはじめて人間になっていく。それは、その人を人間として見出だして受けとめる人がいて初めて、人間になっていくということです。すべてのものから見捨てられ、すべてのものに見放されたら、人間は人間でいることができず、死んでいきますね。それほどに、人間というものは関係を生きるわけです。
ですから、まあ、卑近なことですけれども、常に見出してくれる眼差しの中に自分をいただいておる。偉そうにしておりますけれどね、誰かに支えられ、誰かに認められて、初めて生きていられるんでないですか。
根底において、人間そのものを本当の意味で見出だしているものを、如来という。人間というものは、自分というものを確立したり、自己を実現しようと思ったりしますけれども、そうやって確立するものではなくて、むしろ人間というものは見出だされてくる、あるいは自分自身に出遇うというかたちで受けとめていくんではないですかね。難しいかも知れませんね。
私自身が、ずうっと、教えのことばを杖にして、自己を確立しようと思うておったんです。ところがそうではないんですね。
これは蓮如さんの『御一代記聞書』に出てきますがね、ある方が──きっと長年聞いたおばあちゃんやと思うんです。北陸ではね、首を縦に振ったり横に振ったりしながら、背中を丸くして、一番前で聞いておられるおばあちゃんがおられます。ときどきナンマンダブ言うてね。きっとそんな方だったかも知れませんが——蓮如さんに「私は、法座の時には本当にうなずいてわかったような気がするんだけど、家に帰るとさっぱりや」と言うんです。これはみなうなずきますね。家に帰るよりも、もう、お斎になったら終わりや(笑)。お斎になったら、何聞いとったか、もうさっぱり忘れてね、わいわいがやがや言うてね。で、また午後からも法座があったりすると、何か質問ありませんかって言うと、だまぁってね(笑)。
ところが、そのおばあちゃん──だと思うんですけれど──長年聞いてきて、聞いている間は「そうやなあ」と思って聞いとるちゅうんです。ところが、あとになってみると何も覚えておらん。ちょうどざるで水を汲んできたみたいなもんやと言うんです。こんな聴聞を続けていたんでは、早く死がやってきてしまう。こんなことではならんと言うて、蓮如さんのところに恥ずかしいですけれどもと聞きにいった。私はちょうどざるみたいなもんで、何度聞いておってもだめなんだ。こんな私をどうしたらいいんでしょうと、こう聞くんですね。
そうすると、ご存じの通り、蓮如さんは「そのかごを水につけよ」と、こうおっしゃるんです。どういうことかというと、教えのことばを自分のほうへ持ってくる、お念仏を自分の人生、生活に取り入れる、そうやないということです。教えの中に自分をいただきなさい、ということです。念仏の中に自分を見出しなさい。こう言っておられるんですね。
こっちが念仏を使ってたすかろうということではないんです。念仏の中に自らをいただいていくんです。その念仏とは何かと言えば、本願の呼び声でしょう。本願は何と呼びかけるかと言えば、帰命のことば。「南無」というのは「帰れ」ということです。「本願招喚の勅命」(教行信証、行巻)。本願が呼んでるというんです。帰れというんです。どこへ帰るかといったら、念仏申す身に帰れ、迷いの身に帰れということです。わかったつもりになり、いつまでも生きてるようなつもりでおる私たちに、いのち終わっていく人間の身に帰れと。そこが本願と出遇う場所やと。
ご和讃で、「帰命せよ」と言うでしょう。あれは「帰命せよ」ということばに帰るんです。「帰れ」ということばが届いたところが「見」と「聞」なんです。初めて見えてくる、初めて聞こえてくる。念仏申せということが初めて届いてきて、迷いの身に帰れという。
その聞こえてきたというのは、いつ聞こえてきたのかというと、三帰依文に「今」とあるでしょう。親鸞聖人も「弥陀成仏のこのかたは/いまに十劫をへたまへり」(浄土和讃)と。今、これは目覚めなんです。「受」ということがいつ起こるかと言えば、今なんですね。で、今聞こえたら、今だけ聞こえたのかというとそうではなくて、十劫のむかしから呼びかけられていたことに今、初めてうなずいたということです。そうすると、今というところに私たちは十劫という深さをいただくのです。長さをして、深さを表現しておるんです。
「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し」(三帰依文)─。百千万劫というのは長さです。だけど、その長さは出遇ったものの深さを言うんですね。今ということは、古くならないんです。2000年前、2500年前のお釈迦様のことばを聞くのも今。「今、いのちがあなたを生きている」(御遠忌テーマ)とありますが、いのちというものは今を生きるものです。いのちというものは古くならんのです。だいぶ歳いくと古くなったように思うけどね(笑)、古くならんのです。その証拠に、みなさん今日は初めてでしょう。今日が2回目っていう人いないでしょう。私は51歳ですけどね、今年初めて51歳になったんです。みなさんも何歳か知りませんけど、初めてでしょ。何年も同じ歳言うて鯖を読む方もいますけど(笑)、それはまた別としてですね。
いのち自身は常に新しい。これも、蓮如上人の『御一代記聞書』にね、聴聞するということは、同じことを何遍聞いても、初めてのように聞こえる。「ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり」(御一代記聞書、130)とあります。こういうご聴聞の場に出るということは、聞けば聞くほどいよいよ深く我が身に帰っていくんです。それは本願の中に呼び返されていくことです。聞けば聞くほど聞かねばならぬ身をいよいよいただいて、新たに新たにね。それは教えが深いのと同時に私たちが生きているいのちが深いのです。
だから「無上甚深」──無上と言います。無上というのは、終わりがないのです。ここまで聞いて終わったというのではない。「見聞し受持する」ところから、いよいよ聞かねばならんことが始まる。だから、そのあとに「願わくば如来の真実義を解したてまつらん」とあります。「解し終わった」とは言うとらんでしょ。教えを聞くということは、いよいよ聞くという深さに帰っていくのです。ご聴聞を重ねれば重ねるほど、いよいよ念仏申すべき身を深くいただき直していく。それが真宗門徒の生活です。それが「教えに遇う」ということの内容でないかと思います。
「わかった」なんということは、根が浅いんです。「わからん」というのが深いんです。「わかりましたか」って訊くと返事できなくなりますね。一度、小学校5年生の子がね、学校を休んでまで聴聞の場に来られたんです。そして、ひとりずつ最後に感話が当たったんです。みんな難しいことを言うとったけど、その子が「さっぱりわかりませんでしたけれど、わかったらだめなそうなんで、わからんまま帰ります」と言うたのがいちばんおもしろかったです。
わからん。そういう教えをいただいていく。わからんけれども、そこに深いものにうなずいていく。不思議というのはそういうことです。不思議というのは何もわからんということではないです。出遇ったもののある人が「不思議やなあ」と言う。ことばに言い尽くせない不可思議。そういうことでございます。
何やらうまいこと行きませんでしたが、時間がまいりましたのでこれで終わります。
(文責:蓮光寺門徒倶楽部)