あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

門徒随想

4年前、父が亡くなった折には、弔問客たちからさんざん嫌な思いをさせられました。

「あなた、いくつになったの? まだ独身なの? あらまあ、お父さまもそのことが一番気がかりだったはずよ」─。

誰もかもが同じ話をするのです。誇張ではありません、本当に「誰もかもが」です。こちらが抗議できない立場であるのをいいことに、大上段からいたぶり放題です。彼らに言わせれば「衷心から心配してあげている」つもりなのでしょう。肉親を亡くした直後で精神的にどん底に落ち込んでいる遺族を「衷心から心配してあげ」て、傷にせっせと塩を塗り込むです。私の日本語理解においては、それを「弔問」とはいいません。

中には、お前は親不孝だのなんだのと、1時間以上に渡って説教をしてくれた人もいます。「人たるもの、所帯を持ってこそ一人前」などと云々。半人前の私には判断できませんが、その方はさぞかし立派な一人前の人間なのでしょう。

私は未婚なので「所帯を持ってこそ一人前」などと言われるのですが、既婚者であっても子宝に恵まれていない場合は、同様に「故人はさぞかし孫の顔を見たかったでしょうね」などと言われ、針の筵に座らせられるようです。あるいは、もし遺族の中に就職浪人がいれば「故人はあなたの就職のことが何より気がかりだったはずよ」でしょう。とにかく何でもいいから、遺族の中にネタを見つけて「故人はそのことが気がかりだったはずだ」と言えば、反撃されるリスクなしに「衷心から心配してあげる」ことができます。

こういう弔問とはいえないような弔問客の言葉に、遺族がひたすら耐え忍ぶだけの葬儀ならば、もはや〈亡き人を縁としてお念仏に遇う場としての葬儀〉の体をなしていません。

蓮光寺では〈亡き人を縁としてお念仏に遇う場としての葬儀〉の回復を願い、力を尽くされています。従来の葬儀の形式においては、それが単なる〈社交の場〉にならないように、あるいは最近増えている家族葬においては、それが決して〈簡潔で安上がりな作業〉に陥らないように、懸命に取り組まれています。私もそのようなお寺に足を運ばせていただいている以上、どんな人のどんな死にも教えが示されているということを、折りに触れて確認していきたいと思います。

谷口裕 41歳

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