あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

法話 春秋賛先生

真夏の法話会&蓮光寺ビアガーデン

2009年8月1日(土)

講師: 春秋賛先生(石川県・仙龍寺住職、69歳)

テーマ:「今、いのちがあなたを生きている ─真のよりどころを求めて─」

はじめに

石川県の白山市、松任から参りました春秋でございます。2004年に、御遠忌テーマを設定する委員として本山より選ばれまして、蓮光寺のご住職である本多さんと出遇いました。本多さんとは約1年半にわたって、御遠忌テーマに関する委員会で、毎月1回ないし2回と顔を合わせたのですが、あっという間に気があってしまいまして、裸で付き合える人が東京にもいたなと思いました。もちろんお互いお酒が好きだということもあるのですが、今ここに足を運ばせていただいてみると、こういうつながりができるのだなとつくづく思いました。こうして東京ではじめて法話をさせていただくご縁をいただいたのです。

今日の法話のテーマは「今、いのちがあなたを生きている ─真のよりどころを求めて─」。そのテーマについて直接的にお話しできるかどうかわかりませんが、今日の法話会に先立ってコメントがほしいということで、本多さんにコメントを送りましたが、それが案内のチラシに掲載されています。

ちょっと読んでみます。

「見聞(けんもん)し受持する」

(仏・法・僧の三宝に帰依しなければ、どんなに時間をかけたとしても単なる知的努力や修養では仏法をいただくことはできません。今、この縁が熟し、師友のねんごろなお導きのもと、私は仏法を聞き開き、仏の大慈悲を確かに感受して生き貫くことができるようになりました。 〈現代語訳の文責は蓮光寺〉)

「目と耳をふさぎ、達者な口ばかり」。先輩からいただいた年賀状の言葉です。おそらく今日の社会と人間のことを鋭く言い当てた言葉であろうと思われます。親鸞聖人も仏法(浄土)を疑う人を「眼無き人」「耳無き人」、つまりものを見ていても眼がしっかり見ていない。この姿が人間であると教えられています。特に現代は情報が入りすぎて、このこと一つという要が分からなくなっている。目も同じことが言えます。その大事なものをふさいで、「口」が謳歌し、口がやかましいのです。口を通して我がままいっぱいの自己主張が本当に達者になっているということです。これはどなたのことを言っているのでしょうか?

私は、毎日10件ほど月参りに出かけております。東京には月参りはほとんどないようですが、北陸では月参りがあって、月に一度は門徒さんの家に参ります。そこでまず門徒さんとの会話などを手がかりにお話をしてみたいと思っています。

真宗砂漠

石川県は真宗王国と言われています。今申しましたように、月参りがありますから、何とかご門徒さんとの接点は保たれ、確かに伝統的な行事もきちんと行われています。しかし、内実は大変大きな問題を抱えているのです。かなり前になりますが、「東京砂漠」という言葉がありました。人がたくさんいても、心のつながりが失せてしまい砂漠のようだということで、このように表現されているのでしょう。ところが真宗王国の北陸が、今「真宗砂漠」になってきているのです。行事、儀式はきちんとおこなっていても、何が真実であるのか、何が浄土真宗であるのかということがだんだんと曖昧になってきているのが現実なのです。

今年の3月に本多さんが金沢教区教化委員会研修会(於:金沢別院)でお話しされたのですが、その時に「金沢まで新幹線が開通してしまうと、東京文化が大量に流れ込んで、今までのすばらしい伝統が崩れてしまうのではないか」とドキッとするような提起をされましたが、新幹線が通る以前から、もうすでに北陸は「真宗砂漠」になりつつあるのです。

それを端的に物語る月参りでのお話があります。以前は、月参りにおじゃまして、そこの門徒さんの友だちなどもいらっしゃると、「いいご縁に会わせていただきました」という態度で私に接してくださっていました。「ここのおばあちゃんのご命日に会わせていただいたご縁ですから、お内仏にいっしょにお参りしていきましょう」という声が聞こえてきたものです。ところが、最近のことですが、私がおじゃましますと、お友だちは「それでは私たち帰ります」と、帰ろうとするのです。つまり、いやなものがきたというイメージなのです(笑)。これだけの差が出てきているのです。それでも私は「せっかくですから、いっしょにお参りしましょう」と言うと、いやいやながらお参りはしてくださるのですが、そのぐらい変わってしまったのです。これはひとつの例に過ぎません。今日の法話会の勤行では、合掌の時にひさしぶりに大きなお念仏の声を聞かせてもらいました。北陸ではこれがなくなってきているのです。ご本尊の前に座り、法話を聞き、自分を見つめさせていただくことがなくなって、自分勝手に作ったイメージで住職を見たり、お寺を見ているだけなのです。行事は行われていますが、大切なことを見ているようで見ていない。聞いているようで聞いていない。目と耳をふさいで生きているのです。だから形はあっても、真宗砂漠になってしまっているのです。北陸のことを申し上げていますが、日本全体がそういうことになってきているのではないでしょうか。

「目と耳をふさぎ、達者な口ばかり」これは、大先輩からいただいた年賀状の言葉です。親鸞聖人のお言葉に「無眼人(むげにん) 無耳人(むににん)」とあります。これは体が不自由とか、そういう話ではないのです。親鸞聖人は仏法を疑う人は、ものを見ていても眼がしっかり見ていない、聞いていても本当には聞いていない、この姿が人間であると教えられています。おそらく今日の社会と人間のことを鋭く言い当てた言葉だと思います。特に現代は情報が氾濫していて、そのことに振り回されて、それを見極める眼もないし、受け止める聞き方もできないのです。このこと一つという要が分からなくなっているのです。「達者な口ばかり」とは、自我の主張ということです。大切なことが見えない、聞こえないにもかかわらず、口を通して我がままいっぱいの自己主張が本当に達者になっているということです。この言葉は、もちろんこの私自身に呼びかけている言葉だと、大切にいただいているのです。

私が、私がと、我を立てることによって、それに振り回されているのが私たちの日常です。その人間構造にメスを入れていくのが仏教なのです。メスを入れてうなずいていくところに「目覚める」ということがあるのです。ですから真宗砂漠のなかで浄土真宗を明らかにせねばならんと「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマが発信されたのです。このテーマは人間と仏法の主語の入れ替えというねらいがあるのです。あえて仏教用語を使っていませんが、「私」を立てることによって迷っているわけですから、一度主語を入れ替えてみることで、私たちの姿が明らかになっていくかもしれません。この御遠忌テーマから何を呼びかけられているのか。聞法を通して、日常をふりかえることが大切なことだと思います。

蓮如上人のご遺言 ─真のよりどころ─

蓮如上人のお仕事というのは、難しいといわれる仏教を、読み書きも出来ない、学問も教養も身につけていない私たちに、仏法を、噛み砕いて噛み砕いてお伝えくださったことでしょう。そして、蓮如上人は、親鸞聖人の明らかにされた浄土真宗ここにありと示してくださいました。

蓮如上人が亡くなる前年の石山本願寺での報恩講の初日に参詣者の前で述べたお言葉、これが最後のお言葉として、『御文』の4帖目15通にございます。「あながちに一生涯をこころやすくすごし、栄花栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あわれ、無上菩提のためには、信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をももうさんともがらも、出来せしむるようにもあれかしとおもう一念のこころざしをはこぶばかりなり」 〈訳〉強いて言うならば、一生涯を安穏に過ごし、富や力にまかせて贅沢な暮らしを好み、花鳥風月を愛でて楽しむために生きているのではありません。ああ、どうかこの上ない菩提心のためには、信心を決定する行者も増え、念仏申す人々も出てきてほしいと深く願うばかりです。

この一文ですが、これは蓮如上人のご遺言であり、浄土真宗の要、つまり何が真のよりどころになるのかが書かれているわけです。蓮如上人は自分自身、一生聞法だと、そしてご門徒にもそのことを伝えてきておきながら、隠居の身に安住しているとは何事かとあらためて立ち上がられたのでしょう。石山本願寺をお建てになった蓮如上人は、お亡くなりになる前の年の11月21日から7日間、最後の親鸞聖人の報恩講をお勤めになられています。その初日に、参詣されたご門徒の前で述べた言葉が最後の『御文』として残されているのです。これは、蓮如上人のご遺言であり、浄土真宗の要として、門徒と称する私たちに在家の身でありながら、何が「真のよりどころ」となるかを教えてくださっている『御文』と私自身いただいているのです。

一生涯をこころやすくすごして、栄花栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせているのが私たちの日常性でしょう。つまり思う通りになりたいということでしょう。だけれどもそのことに振り回されている現実がありますね。そのことに振り回されることで私たちの貴重な一生涯があるのではなく、このことを為さしめる土台となるもの、真のよりどころが「無上の菩提心」、つまり「目覚める」「自覚」ということが大切だと蓮如上人はおっしゃっているのです。このことを平野修先生は平たい言葉で「再認識」とおっしゃっています。私たちの相(すがた)を仏法の智慧によって知らされることが大事なことなのです。これはさきほどの御遠忌テーマの主語の入れ替えということなのです。

「砂上の楼閣」と「菩提心」

「砂上の楼閣」という言葉があります。現代は、砂の上に楼閣という人生を打ち立てているのです。

砂の上にどんなに立派な楼閣を建てても、雨がふればあっという間に崩れてしまうのです。その砂に代わるべき私たちのよりどころ、それは「菩提心」なのです。教えを求めた心で、様々な人と語り合っていく、これこそが大乗仏教の基本的精神であり、菩薩の生き方なのです。

暁烏敏先生は「鉄や鉛が金や銀になれるか」とおっしゃいました。仏法は鉄や鉛であったと地金を知ることだということです。金や銀になろうというのは、我が身が鉄や鉛であったことに気づかずして、向こう先ばかりを夢見ているのです。金や銀になっても必ずはがれます。なぜなら、私たちはメッキしているだけだからです。メッキの人生を「砂上の楼閣」というのです。土台がはっきりしていないと必ずはがれるのです。地金とは人間の正体です。親鸞聖人は「罪悪深重の凡夫」とおっしゃっいました。教えを聞くことによって、凡夫という大地にいつも帰っていくのです。

「聞く」ということはお寺で聞くということもありますが、家族の言葉に出遇っていくことも教えの内容となっていきます。教えは私たちの生活の足下にたくさんあります。在家の身でありながら、見聞することを通して、家のなかで、それが教えに展開していくのです。一度教えにうなずけば、この私に無数によびかけてくれる事柄が見えてくるのです。仏法は、学び教えられること、この一点です。それが我が身を通してうなずくということです。日常の人間のドロドロした声を聞くということが大切なのです。#$

天上の音楽を聞きて、地獄の肉声を聞かず

仏法を頭で理解することもある意味大事ですが、頭で受けたことを、我が身を通してうなずきがおこるかどうか、これがないと真実の仏法にはなりません。

曽我量深先生は、東京に出てこられたときに仏法を頭で聞く人ばかりだと歎かれました。そして、現代の状況を「天上の音楽を聞きて、地獄の肉声を聞かず」とおっしゃいました。「天上の音楽」とは暁烏先生の言葉で言えば金や銀です。「地獄の肉声」とは日常の声です。日常の声によって、はじめて我が身に気づかせていただく世界があるのです。「今、いのちがあなたを生きている」の「今」です。「今」ここに生きている時に教えに出遇うことを通して、この私に目覚めという心をおこさせていただくということをはっきりされたのが親鸞聖人ですね。それが「お念仏申す」ということなのです。自分がお念仏を称えるのではないのです。南無阿弥陀仏の六字の名号は教え全体の御名前なのです。その名号がこの私を呼び覚ますのです。「今」この時に生涯をかけるのです。

「地獄の肉声」としての日常の会話の中に目覚めの心、気づきの心がおこってくるような出遇いがあれば、つまり、真のよりどころをもっていれば、楽にウロウロできるのです。親鸞聖人や蓮如上人は言葉を噛み砕いて私たちに教えてくださっています。難しい言葉を覚える必要はありません。自分を知る、その一点です。

(文責:蓮光寺門徒倶楽部)

春秋賛先生
ビアガーデンの様子

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