あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

さかさまは「この私」

「お盆とはどういった仏事でしょうか」と尋ねると、「先祖が帰ってくる日なので、先祖を大切にしてお墓参りをします」と答える人がほとんどのように思います。では、「先祖はどこから帰ってくるのですか?」と尋ねると、「……」なのです。そして「まあ屁理屈はいいから、とにかく帰ってくるんだから、お参りすればいいではないか」と、こんな答えがよく返ってきます。もちろん先祖を大切にしようという心は大切ですが、例えばお盆の時期にお祝い事をすることはタブーであったり、お盆中に数珠が切れたりすることに不安感を覚える人がいたりするのは、お盆という行事がどこか不吉なものとしてみられているからではないでしょうか。

お盆とは「盂蘭盆会」(うらぼんえ)といって、『盂蘭盆経』に説かれている釈尊のお弟子・目蓮尊者(もくれんそんじゃ)の物語に由来するものです。

目蓮尊者は、餓鬼道に堕ちて、さかさまに吊るされてたいへん苦しんでいる亡き母をたすけようとして、母が求める食べ物と飲み物を用意して差し出したところ、炎となって燃えてしまい、たすけることができませんでした。そこでお釈迦様に相談したところ、「安居(雨期の期間の修行)の最終日の7月15日に、修行僧に供養しなさい」と教えられ、実践したところ、すべての餓鬼と共に母も救われたと『盂蘭盆経』に説かれてあります。

盂蘭盆とは、「倒懸」(とうけん)つまり「さかさまに吊るされたような苦しみ」という意味で、真実に背いて生きている人間の生きざまをいうのですが、亡き母がさかさまになっているというのは、実はさかさまになっているのはこの私であったということを気づかせる比喩表現ではないでしょうか。なぜなら、仏教とは、どこまでも「この私」のあり方を照らすものだからです。にもかかわらず、食べ物と飲み物を供え、それを先祖が食べに帰ってくるというようなことだけが突出して言われ、その部分が一人歩きし、迷信に惑わされ、自分自身のあり方を見つめ直すといったことが欠落してしまったのが今日のお盆の状況だといったら言いすぎでしょうか。

ところで、私たちの先祖は本当に餓鬼に堕ちているのでしょうか? むしろそういう心配をしてしまうところに餓鬼的な生き方をしている私たちのあり方が教えによって照らしだされなければならないのでしょう。

この文章は、『仏教家庭学校』(教育新潮社、2010年、お盆用・伝道用施本)に掲載された蓮光寺住職執筆の「さかさまは『この私』」の一部を転載したものです。

いつでも亡き人と諸仏として出遇う ─迎えも送りも要らない世界─

お盆は、「死すべき身」を生きている私たちが、かぎりあるいのちをさかさまになって、ボタンを掛け違えて生きていないかどうかを見つめ直し、かけがえのないいのちを本当に生ききってほしいという、亡き人の深い願いの呼びかけを聞いていくことがお盆の大切な視点です。

いつでもどこでもどんなときでも、亡き人を諸仏として出遇っていける世界を開いてくださったのが宗祖親鸞聖人の教えです。そのことに身を通してうなずかせていただくところに仏法聴聞の大切さがあります。

いつでも出遇っていける世界をいただいてみれば、私たち真宗門徒にとっては、一年中お盆だといっても過言ではありませんが、夏のひとときに気持ちを新たにするという意味で、お盆の行事が勤まると受け止めれば心新たに「正信偈」のお勤めをし、教えを聞き開いていきたいものです。

ですから、迎え送りの象徴としての提灯、牛や馬を意味する、なすやきゅうりを置く必要はありません。ただ、親戚などから提灯をいただいた場合、先だっていかれた方へ心をこめてくださったものですから、その気持ちを大切にして、飾られたらいかがでしょうか。それはお迎えの提灯ではなく、風鈴と同じように夏の風物詩として飾るのです。教えにうなずけるとき、いただいた提灯を大切にしていく心も芽生えてくるのではないでしょうか。そこに真宗門徒の生活の広やかさがあるといえましょう。

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