あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

門徒随想

6月の門徒倶楽部の聞法会で思い出したことがあります。

私の実家はお寺とのつながりが薄く、ご法事やお盆やお彼岸になどにお寺に行くぐらいでした。ひねくれ者の私は、葬儀はほとんどの人が亡くなった人にそれほど思い入れがなくても、とりあえず付き合いで参列している程度のもので無意味だと思っていました。日々忙しい毎日のなかで、亡くなった人を忘れるのは生きることに懸命で幸せなことであり、何かの拍子にちらっと思い出して笑ってくれれば、それがありがたいこと、お線香をあげることより嬉しいことと考えていました。

母は兄弟が多く、遠く離れて暮らしている者もいて、私の記憶には若々しい姿で止まっている叔父叔母もいました。それが祖母の死で親戚一同が集まり、祖母の話はもちろんですが、お互いの近況を報告し合い、また、祖母の写真を選びながら、懐かしい話で盛り上がり、笑顔さえ見えていました。私はその光景に、葬儀も大切なものかもしれないと感じました。葬儀は人と人のつながりを作る場なのかもしれないと思い、祖母の死もありがたく思えました。

その後も実家とお寺の付き合いは変わりませんが、門徒倶楽部の聞法会のおかげで、葬儀を勤める大切な意味を履き違えていたことを教えられました。単に亡くなった人を偲ぶことも、また人とのつながりを回復することにも意味はあるとは思いますが、人の死を通して、自分自身のあり方、生き方が問われてくる場、つまり教えから照らされる我が身を見つめていくことこそが葬儀の要であり、それによって亡くなった人とももっと深く向かい合うことができるのだろうと思いました。まだまだ十分わかっておりませんが、自分でも気づいていないことを教えていただいて、それが身について満腹になりたいと思っています。

これを書いている時、『あなかしこ』の締め切りのことで本多ご住職から電話がありました。お寿司屋さんからで、日野宮さんもいっしょでした。私は、部屋でバラエティー番組を見るほかに笑うことはほとんどありません。しかし、ご住職と日野宮さんとお話していたら、自然に顔がほころび、声を出して笑っていました。

お寺に通うようになって、まさかこんなに笑いが増えるとは思いも寄りませんでした。このつながりが長く続くといいなと、にんまりしました。

成田哲子(41歳)

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