あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

法話 田畑正久先生

真夏の法話会&蓮光寺ビアガーデン

2007年8月4日(土)

講師: 田畑正久先生(大分県宇佐市、佐藤第二病院院長、58歳)

テーマ:「医療と仏教の協力」

真宗との出遇い

皆さん、こんにちは。大分から参りました田畑です。3年前、公の仕事から一歩引いて、ゆっくりした職場で、今医療と仏教の協力というかたちで取り組んでいるところです。

私は昭和24年生まれですので、戦後、いわゆる宗教抜きの公の教育をずっと受けてきました。仏教なんてなくても生きていけると、大学生になるまで思っておりました。私たちのときはちょうど学園紛争がありまして、いろいろ考えることもありました。私の通っていた大学には、医学部と法学部の先輩たちが無料法律相談、無料医療相談をしているボランティア活動をしているところがあります。そのボランティア活動に参加する学生は部屋代が無料ということに惹かれました。私は剣道をしていまして、剣道部の同級生が入っていたので、寮生活をしようということで、その寮に入りました。そこの学生の世話係をするようになったときに、北九州と福岡の間に福岡教育大学があるのですが、そこのケミストリー(化学)の教授が、仏教研究会をしているのを新聞記事で見まして、その会に行き、浄土真宗の話を初めて聞きました。そのときはどういう話だったかというと、「私たちは、生まれたままでは卵みたいな存在だ」というわけです。卵は殻に中に入っている。この殻は自己中心の思いといって、「私が」、「私が」という殻である。この卵はみんな幸せになりたいと考えている。幸せになるためには、みんなからいい人間だと思われたい。悪い人間だとは思われたくないと考える。できるだけ損をしないように、ちょっとでも得になることを心がけていこうと、損得を考える。できることなら、勝ち組に入りたいといって、勝ち負けのことを一生懸命考えて生きている。この卵というのは「私」という存在ですけれども、こういうことに振り回されているうちに、いつの間にか老いて、卵は腐って死ぬということになるのです。しかし、卵は、腐って死ぬために生まれてきたのかというと、決してそうではないですね。親鳥に出されて、親鳥から熱を受ける。仏教の教えを受けると、この中の雛がだんだん育っていき、物を見る目、考える頭、食べる口ばし、羽ばたく羽、人生を歩む足ができてくる。時期が熟すと、ついにひよこになる。ひよこになってみて初めて、大きな世界があることを知り、自分は小さな殻の中にいたなということがわかってくるのです。このひよこは大きな光のもとで、大きな世界の中でついにニワトリになる。すなわち完成した人間は仏になるという歩みをしていく。これが仏教ということです。こういうふうに、私は22歳のときに、聞きました。善悪・損得・勝ち負けを、22年間一生懸命考えてきたなと、自分でも思いました。福岡から車で40分ぐらいの距離ですけれども、毎月行きました。教えを聞いていくうちに「仏教というのは、一生聞いていく教えなのだ」ということに気がつきました。大学を卒業する前に、先生から「本を読むことも大事でしょう。でも、一番大切なことは、これはと思う先生に出遇って、その先生に付いて教えを聞きなさい。」とアドバイスをいただきました。そして今日まで三十数年、仏教のお育てをいただいているということです。

医療と仏教の課題の共通性

最初、私は「仏法の話を聞く」ということは、自分の生き方の問題である。仕事は仕事と、別々のことのように思っておりました。あるとき、埼玉医科大学の哲学の教授をしておりました臨済宗のご僧侶の本を読みましたら「医療の仕事に携わる者は、人間の生老病死の課題に取り組む」と書いてありました。生まれること、老いて、病気で死んでいく。これは医療の課題ですね。その先生が、「生老病死の四苦の課題に取り組むというのは、医療も仏教も同じことを目的として取り組んでいる。医療の仕事に携わる者は、ぜひとも仏教的な素養というものを持って、医療の仕事に携わってほしい」ということを、医学部の学生さんに語りかけていたということが本に出ておりました。私はそれを聞いて、「そうだったのか。自分が仏法を学んでいくということと、医療の仕事をしていくということは同じことなのだな。同じことを課題とするのだ」と、勇気づけられた思いがいたしました。

現代社会を見てみますと、医療と仏教の協力がなかなか実現できていません。大分県でも、僧侶の方が病院に入りますと、看護婦長さんか事務長さんに、「その格好では困ります」と言われますね。アメリカでは僧侶がお参りに行くのは当たり前になっています。人間の生老病死の課題は医学だけでは解決がつかない。やはり宗教的なことを含めて、そこに解決に道があるという共通の認識が、アメリカにはまだ残っているということでしょうか。それに比べて、日本の医療現場は、そういうことがほとんどない。なぜかというと、日本の医学部は、軍医養成から始まったのです。元気な人をつくるという目的で始まっているので、元気でなくなった人は問題外というか、医療の対象ではないということですね。

今、国民の8割は病院で亡くなっているのです。昭和25年は、病院で亡くなる方は16%だったのです。それが逆転して、病院で亡くなる方が80%を超えたのが、平成6年です。しかし、病院で働く医師、看護師は老病死をどういうふうに対応したらいいかということに十分慣れているかというと、延命や救命は慣れているのですけれども、生きていくことにお手伝いするという教育は、全くといっていいぐらい受けていないのです。国民の8割が病院で亡くなっていく。そこでなされることは、延命という形にならざるを得ない。多くの人たちが、浄土真宗でいうならば、浄土に往生していく世界が実現できていないのが現実です。

私たち医師が学んだ医学教育は、診察をして、検査をして、診断をつけて、治療する。そこまでは世界中から情報がいっぱい集まって、教科書にはたくさん書かれています。治療するというところまではたくさん情報があるのですけれども、治療ができなくなってから、癌が再発をしたら、老化現象で老衰になっていったら、どうするかということについては、ほとんど書かれていないのが現状で、人間の最後の老病死の8割が病院で対応されているということの中に、十分な対応がなされていないということですね。

私自身が非常に象徴的に感じたことは、私はもともと外科医で、胃癌、大腸癌の手術をしておりました。前任地の病院で、外科の責任者、管理者をしていたのですけれども、そのときに私たち外科のチームで、ある70代の方の大腸癌の手術をしました。癌の手術をしても、その後5年間ずっと経過を見ていきます。5年たって、再発のきざしがなければ、「癌の影響は全くない。よくなりました」となるのです。この方にも、「よかったですね。もう5年間経過して、大腸癌の心配はありません」と言って、紹介してくれた開業医の先生にお返しをしたのです。その2年後、今度は体が黄色くなって帰ってきたのです。黄疸です。調べてみたら、今度はすい臓に新しい癌ができていて、肝臓にたくさん転移をしておりました。肝臓に転移がたくさんあるということで、手術もできない状態で、結局この人は亡くなりました。このとき、私たち外科がした仕事は、老病死につかまるのを5年ないし7年先送りしただけであって、結局は老病死につかまった。医療でいうならば、敗北になったのです。私たち医療がしていることは、老病死につかまることを5年ないし7年先送りすることだけであって、本当の解決にはなっていないと思いました。

それに対して、仏教は、「生死(しょうじ)を超える道」という形でそれを超えていくということを教えてくれるのです。ここのところが、現代人にはうまく理解できていないのです。

つい最近、私の中学校のときの恩師が脳梗塞になって、近くの脳外科に入院をしました。症状が軽かったものですからリハビリをして、何とか麻痺もなく退院されました。しかし、みんなから「先生、今度脳梗塞になったら死にますよ。養生してください」と、かなり脅されたみたいです。先生はずいぶん養生に心がけたのです。しかし、車で遠乗りをすると、めまいがするそうです。CTやMRIを調べてみたけれども、どこも異常がない。たまりかねて、私のところに来ました。私は消化器外科ですからめまいの専門ではないけれども、教え子ということで、私のところに日曜日に訪ねて来られました。この先生は、私に「田畑さん、脳梗塞になったから、脳梗塞で死ぬということは本当ですか」と聞くのです。「先生、そんなことはないです。交通事故で死んだり、ほかの病気で死ぬ人は幾らでもいますから、脳梗塞になった人が脳梗塞で死ぬことはありません」と答えました。そして「でもね、先生、最後は老病死にはつかまるのです」と、ちょっと付け加えたのです。この先生は私のところに今通ってこられて、いろいろと話をしている中に、先生も死の不安を少しずつ解決していけばいいという思いがします。私のところはゆっくりした職場ですので、ゆっくりとした話ができます。自分が養生しなければならないこと、養生してもどうしようもないこと。そして仏教の話もちょっとします。

老病死の不安は今の医学では取りされないのです。ここのところを十分に考えていかないといけない。医学ができることとできないこと。仏法でなければ解決がつかないことがあるのです。医療の現場で、老病死にまつわる不安がいっぱい押し寄せてくるのですけれども、そのことに対して十分な対応ができていないのです。不安を訴えると、薬を出す。ほかに方法がないものですから、訴えが来るたびに薬を出す。日本の薬の半分は効かないと言われていますけどね。

以前、私のところに、99歳のおばあちゃんが入院しておりました。このおばあちゃんは、85歳のときから私の話を少し聞いてくれるようになりました。このおばあちゃんが入院しているときに、「夜眠れない」というのです。看護師さんが、「どうして眠れないの?」と聞いてくれたら、このおばあちゃんは10代のときに、イギリスに2年間留学をしていたそうです。日本に帰ってきてすぐに、親の勧める人と結婚したのです。厳格な家庭で、子どもが次から次に生まれて、7人の子どもが生まれた。子育てをしているときに親が死んでしまって、親の老後を見てあげることはほとんどなかった。今、自分が99歳になって、7人の子どもが健在で、子どもからよくしてもらっている。自分がしてもらっていることと、親にしてあげたことを比べてみたら、「親不孝だったな」という思いがして、自分は親不孝ということが気になって、眠れないというわけです。

もし、仏教というものがなかったら、おばあちゃんに導眠剤を出してあげようかなと思うところですが、このおばあちゃんは幸いにも浄土真宗の話を聞いてくれていたから、「浄土真宗の本願、南無阿弥陀仏の教えは、親不孝だったと慙愧するものを目当てに、つまり煩悩具足の凡夫を目当てに、念仏する人を浄土に迎えとるのです」という話をじっくりさせていただきました。後から看護師さんに、「あの人、どうなった?」って聞いたら、「先生、あれから眠れるようになったそうです」と言っていました。あのとき、私は睡眠薬を処方してなくてよかったと思いました。

このように、医療の現場では、病気をよくするのではなく、症状を少し取るということにおいては、仏教は力になる部分があります。しかし、いかがわしい宗教になると、「信仰すると、病気がよくなります」ということを言いますが、科学的な根拠は何もありませんしね。

思いと事実の格差で苦しむ

私たちの苦悩はどういう原理で起こってくるかを考えてみますと、私の思いと、私の現実の間に差があるということが、苦しみや悩みになるのです。もともと、「苦」というのは、「思いどおりにならない」というインドの言葉を中国の漢文で「苦」と訳したそうです。自分の思いどおりにならないということが、「苦」になるわけですね。病気でいうならば、現実は病気をした、思いは健康でありたい。そうすると、この差があるとやはり苦しみ、悩みになるわけです。この病気を健康の状態に戻すというかたちにおいて、この人の苦しみを少し軽くするということが、医師とか看護師の仕事だと、病院ではなっているのです。

私が大学を卒業したころ、アメリカの、『New England Journal of Medicine』という、非常に権威のある雑誌があるのですけれども、この雑誌の編集者がこう言ったのです。「病気の80%は自然の治癒力によって、よくなっていく」と。医学がかかわって、「医学のおかげで」というのが、病気の大体12%である。残りの8%は、お医者さんが手を出したばかりに、かえって悪くなったということです。言われてみれば、マスコミや新聞を賑わす医療事故、医療過誤はこういうことですね。医療がいいことをしているというのは、4%ぐらいでしょうか。私は外科をずっとしておりましたので、このことは、「なるほど、そうかもしれないな」と思うのです。胃癌を手術しますと、胃の病巣から2センチ、5センチぐらい、距離を置いて、健常な部分で切って、いいところといいところをつなぎ合わせるのです。手術が終わったら、開けたところを縫い合わせるのです。それは、私たち外科医の仕事ですけれども、傷がくっつくのは本人の治癒力です。だから本人の治癒力にのっかって、医療技術、医療知識を発揮するという原理ですから、こういうことも、「そうかもしれないな」という思いはします。

栄養状態が非常に悪いのに無理な手術をすると、どうしても縫合不全が起こる、傷がなかなか治らないということもあるのです。盲腸の手術をして、傷が治らなくて、20年も経っている人たちもいるのです。

病気を健康な状態に戻すということは医療関係者でなくても、お手伝いができるという一面はあるかもしれません。例えば、病院にお見舞いに行くと、部屋が殺風景なので、部屋を飾ってあげる。また、行ってみたら、家や職場のことばかり心配していたら、「あなた、治療に専念しなさいよ。家庭や職場のことは、私たちがしてあげるからね」と言って、治療に専念する環境を整えてあげることによって、この80%の自然の治癒力がかなり発揮できることがあります。これには前提条件があるのです。良くなる病気のときだけ、この原理が成り立つのです。

文化勲章をもらった日野原先生は、大分県に来た講演の中でおっしゃいました。「今、良くなる病気と良くならない病気で、どっちが多いと思いますか。今は良くならない病気のほうが多いのです」と。まず、癌が再発したときですね。医学ではなかなかケアできない状態が見つかったときは、医学はよくすることができないですね。次に老化現象に関係した病気も、医学で若返らせるわけにもいきません。3番目は、難病といって原因が分からない、治療法もはっきりしていないという病気もあります。これも元の健康な状態に、完全に戻すことは難しい。症状が改善するということはできます。4番目は、脳血管障害で少しまひが出たときです。一生懸命リハビリをしたけれども、どうしても障害が残ったという人が、「元の体に戻してくれ」と言っても、これも戻せないですね。そうすると、良くなる病気のときはこうやれるのですけれども、良くならないときの差はどうしようもないということです。

思いが現実を受容する

しかし、もう一つ、原理的に差を縮める方法があるのです。これは、私の思いが私の現実を受容するというかたちにおいて、こういう差を縮められるということです。星野富弘さんは群馬大学を卒業されて、体操の先生をされていました。授業中に首の骨を折って、脊髄損傷になった方です。首より下が全部麻痺をされているから、口に筆をくわえて、植物の絵を描いて、その中に歌を書いています。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日に、生きているのがうれしかった」と書いております。「健康が大事です」、「障害がないことが大事です」、「いのちが一番大事だ」と思っていたころは、回復不可能な障害になって、この差が縮められないから生きるのが苦しかった。その次に、「いのちよりも大切なものがあると知った日」、これは浄土真宗で言えばお念仏の世界、仏さまの世界があると知った日に、「生きているのがうれしかった」。こちらは、「生きるのが苦しかった」けれども、こちらの世界は、「生きているのがうれしかった」ということは、「おかげさま」という、現実を受け取れたという世界を示されていると思います。こういうふうに、思いと現実の差を縮めるという形において、一人ひとりの苦しみや悩みが少なくなることが原理的にあるわけです。

最近、私のお話を聞いてくれる私たちの先輩で、大分県の外科の指導的な立場にあった方がおられます。80歳近くの先生がこういう言うのです。「私は現役のときに、外科の手術をして病気をよくするということだけで、すべて人間の苦しみを取っていけると思っていた。だけどこの現実を受容するという原理があるとは夢にも思いませんでした」と。私たち医療関係者は病気をよくするのがすべてだと思っているのです。この現実を受容するという精神的というか宗教的な世界があるということを、ほとんどの医療関係者は気付かず、誰もできないことだと言う。もし自分たちでできなくて、こういうことがあるということが分かって謙虚な先生であれば、自分にできないことは、その患者さんの宗教関係者との協力を得て、現実を受け取るという形にお手伝いができるという方向が出てくるはずなのに、「そんなことはあり得ない。俺たちができないのだから、あとは誰もできないんだ」と抱え込むけれども、何もしないという医療の現実があるわけです。

先ほど住職さんからご紹介いただきましたけれども、定年退職された大分県の毎日新聞の文化部の元部長さんが、大分合同新聞というローカルな新聞に、時々エッセイを書いています。その中に、「医者の傲慢、坊主の怠慢」と書いてありました。「お医者さんは、人間の苦しみや悩みも自分たちが取り除いているという傲慢になっている。お坊さんは人間が亡くなってから出てくるから、生きている人間を相手にしてない。怠慢である」と言うわけです。そこには、生きている人たちを相手にする、同じ生老病死を取り組む医療と仏教が協力することが求められている時代になっています。一般の人たちも、お医者さんも僧侶の方たちもどういうふうに協力したらいいのかが分からない中で、自分にできること、できないことをわきまえながら、一人ひとりの苦しみ、悩みを取るという形で、自分のできることを精いっぱいさせていただくし、できないことはできる人に協力を求めて、一人一人の苦しみ、悩みを取る形の中に取り組めるのではないかと思っております。これが一つ、医療と仏教が協力する中で、考えられることではなかろうかと思います。

後生の一大事とスピリチュアル

それから、健康ということも医療と仏教が協力しなければ、本当に実現できないという時代になってきています。多くの人たちは健康というのは、医師や看護師、保健師さんが健康指導というかたちでするから、その人たちだけの問題だと思って、どうして仏教が関係あるのかと思われるかもしれません。

国連の中にあるWHOの健康の定義は、「身体的に健全である。精神的に健全である。社会的に健全である」。これはフィジカル、メンタルというのを精神的に訳しているのです。社会的というのは、身と心が健全であっても家庭での人間関係、職場での人間関係、地域社会での人間関係がちゃんとできるということが、人間として健康であるということが、健康の定義で出ています。

日本の法律の中でも、医療法の「健康という定義」でこれがうたわれております。これは法律でも決まっているわけです。しかし、これではどうも人間全体の健康をカバーできていないのではないかといういろいろな意見が出てきました。そこで四番目に「スピリチュアルに健全である」ということを加えようという話になってきました。日本語の適切な訳がないので、片仮名でやっています。WHOの理事会で、4番目の要素として入れることの決定がなされました。しかし、まだ日本では、総会の決定に移ろうとしたときに、いろいろなところから「それを入れるには、まだ早いのではないか」ということで、一応保留になっているのです。それで日本でもこういうことがあまり話題になっておりません。関係者の間では、どう取り組んでいったらいいかという、大きな取り組みはなされております。

これが仏教とどういう関係するか。私は3年半前の55歳のときに、公の仕事として院長を10年間しましたので辞めたのです。「定年まで10年あるのに、辞めなくてもいいではないか」と、いろいろ言ってくれる人もいました。私は仏教の先生からこう言われていたのです。「世間の仕事は余力を残して辞めなさい。後生の一大事の解決がついていなくて、どうしますか」と。そういうこともありまして、少し勇気づけられました。一歩、半歩退いて、仏教の勉強をもう少ししたいと思って、取り組まさせていただいているのです。この「後生の一大事」ということと、スピリチュアルとは、非常に関係しているわけです。「後生の一大事」とは3つの内容を持っています。第1に、人間として生まれた意味を、私たちはどういうふうに理解しているか、納得できているか。生きることの意味です。次に、生きていることで果たす私の使命、私の仕事をどういうふうに理解しているか。そして、死んでいく時に「南無阿弥陀仏」という安心(あんじん)の世界を持っているかどうかということです。それにもう一つ加えるなら、罪悪感からの解放ということがありますが、まず3つを入れたことが、スピリチュアルといっていることだと思います。

どうしてこういう問題が出てきたのか。福岡で30代の方が大腸癌になり、手術を受けました。手術はクリアしたのですが、運悪く2年後に再発して、痛みが出てきたので、ホスピスに入って、モルヒネなどいろいろな薬を使って痛みを十分に取ってもらいました。そうしたら今度は腸閉塞になった。癌の腸閉塞は1カ所だけではなく、何カ所も巻き込まれていることが多いのです。手術できる患者さんは20人に1人いるかいないかで、結局、この方も手術できませんでした。腸閉塞だから食べるわけにはいかないので、点滴で水分や栄養の補給をしていたのです。回診のときに、先生に「私は死ぬために生きているのですか」と言ったそうです。入院していると同じ病気をした方がいらっしゃいますから、いろいろな情報が来ますね。ですから、痛みが出てきた、食べられないことになってきたということになったら、数カ月のいのちだなということがわかってくるのです。そうすると、「私に生きる意味はあるのだろうか。ただ、死ぬのを待つだけですか。先生、私は死ぬために生きているのですか」と訴えたのです。それに対して私たち医師、看護師が十分に応えてあげることができるかというと、今の医学教育、看護教育では何も言ってあげることはできないわけです。「生きる意味はあるのか」と言われたときに、どう応えられるのでしょうか。

アメリカでは、同じような癌の末期の患者さんをお世話していたキューブラ・ロスという先生が、日本に来た講演でこう言ったそうです。ある病気を抱えて、あと数カ月のいのちだなとうすうす思われるようなご婦人が、先生に「先生、私はいい生活をしてきたけれども、本当に生きたことがない」と訴えたそうです。「みんなに負けてはならないと思って、家庭の管理や子どもの教育、経済的なことなど中ぐらいの生活ができた。だけど、あと数カ月のいのちだとわかってきたときに、私が生きてきたことは本当に生きたことだったのだろうか。負けてはならないと思って、単に走り回っていただけではないかな。生きたという実感がない」と。「いい生活はしてきたけれども、本当に生きたことがない」と訴えられたのです。

このことに対して、医師、看護師は、何かアドバイスができるかというと、できないわけです。こういう問題が出てくる。この人たちは身体的な問題はあるけれども、薬でいい状態を保っている。精神的にはしっかりしている。社会的にも何ら問題がない。まさに、この3つではないところで、苦しんでいるわけです。こういう人間の苦しみや悩みの全体をカバーするためには、どうもスピリチュアルという要素を入れなければ、人間全体をカバーできていないのではないかと言われるようになってきました。

私たちが浄土真宗のお育てをいただいて、本当に真実、信心というお念仏の世界に立たせていただくと、自然と人間に生まれた意味がうなずけてくるのです。そして、生きるということの意味もわかってくるはずです。死んだらどうなっていくのか。「お任せします。南無阿弥陀仏」と、何の心配もないという世界が開けてくるのです。

私たちが仏法のお育てをいただいて、そういうことがはっきりするということが、人間としての健康であるということです。それを今世界が認知をする時代になってきているのです。このことがまだ解決できていないとするなら、私たちはしっかり聞法をする。大きな世界に出させていただく。卵の殻が破れて大きな世界に出たら、この辺が自然とうなずけていくのです。そういう目覚め、智慧をいただくという世界です。

“しあわせ”とは

みんな幸せになりたいですね。どうしたら幸せになるかと考えると、私たちは幸せのプラス条件をできるだけ集め、マイナス条件を少なくする。健康と病気では健康がプラスで、病気がマイナス。能力があることはプラスで、能力がないのはマイナス。役に立つ人間はプラスで、役に立たない人間はマイナスと、プラスマイナスを、私たちはついつい考えてしまいます。老いることはマイナス、病もマイナス、死もマイナスですから、そうすると最終的には幸せを目指しながら、結局は不幸の完成で人生が終わってしまうのです。

パスカルの原理を、皆さんは聞いたことがあるでしょう。パスカルが『パンセ』という本の中には、「不幸の完成という断崖絶壁があるので、それが見えないように幸せという立て看板を立て掛けている。そして不幸の完成を目指して、みんな突っ走っている」というのです。言われてみればそのとおりですね。

皆さん、「しあわせ」というのはどういう字を書きますか。漢字でイメージしてください。私は「仕合わせ」と書きます。こちらの「仕合わせ」は、個々の仕事です。仏さまから与えられた仕事に出遇うわけでしょう。私がこの世に生まれてきて、この世で果たす使命、仕事に出遇っていくことが、本当のしあわせです。私たちはお金を稼ぐ仕事だったら、あまり働かなくてもいかに稼ごうかと思うけれども、自分に働く意味があったら、少々の苦労を背負ってでも、私たちはやりたいわけです。そういう仕事が生きることで果たす使命、仕事です。そういう仕事に出遇うということが、本当のしあわせということの意味というわけです。いつの間にか、私たちの分別は、プラス価値をいっぱい持って、マイナスが少ない人が幸せだと思う。まったく考え違いをしているのです。

三木清氏が『人生論ノート』の「幸福について」で、「幸福とは人格である」と書いています。私が大学生のときにこの本を読んで、何で幸福と人格が関係あるのか。関係ないのではないかと思っていた。仏教のお育てをいただいて、やっと見えてきたことは、仏教の智慧をいただく人格になるのです。仏教の智慧をいただいて、そこに智慧を身に付けた人格になる。それが本当に人間になるということですね。

健康ということは、身体的、精神的、社会的だけではなく、そこにはスピリチュアルに健全である。人間に生まれた意味が分かる、生きることの意味が分かる、生きることに仕事が本当にうなずけた、死んでいくことも心配ないという覚り、信心の世界に出させていただくことが、人間としての健康であるという時代になろうとしています。ということは、医療と仏教が協力して、初めて人間としての健康が実現できるという時代になろうとしています。単に体が健康、頭がしっかりしているということだけではなく、人間関係がちゃんと成り立つ、こういう宗教的な世界をもうなずけているということが、人間としての健康であるということです。そう意味で、医療と仏教が協力して、本当に人間としての健康を実現できるかたちになれればいいと思います。

永遠の今を生きる

今、医療の世界でもう一つ大きな目標は何かといったら、健康で長生きです。「長生き」ということすら、医療と仏教が協力して初めて実現できる時代になろうとしているのです。私たちが願っている長生きは、生きている時間を伸ばすということが、本当に願っている「長生き」かという問題を考えてみたいと思います。

仏教では、そのことにちゃんと触れてくれているのです。親鸞聖人が、「真実の経、大無量寿経、これなり」という、『大無量寿経』に48の本願があるのです。その15番目にこのように書いてあるのです。私なりに試訳してみます。「本当にお念仏の世界がいただけて、浄土に生まれるものは、本当に長寿は実現できます。ただし、いのちの長い、短いにとらわれる人は除く」と。本当に長生きできると書いてあるのに、「いのちの長い、短いにとらわれる人は除く」と書いてあるのです。仏法の学びをしていますと、本願というものの中に、十五願と十八願、二十二願に「除く」ということが書かれています。

何で、「いのちの長い、短いにとらわれる人は除く」と書いてあるか。仏教では、「今しかありません」というのです。私たち学校では、過去もあり、未来もあると習ってきたのに、なぜ仏教は今しかないというのか。私たちは過去に生まれて、未来に死ぬという予想はついています。生まれて死ぬという有限のいのちを生きてきているわけです。ところが、仏さまの世界は「無量寿」というのです。はかりしれないいのちでもあり、永遠という時間でもあるのです。

ある大学の哲学の先生の本を読んでいたら、「死にたくない、長生きしたいというのは死なないいのちに巡り合いたい、無量寿の世界に出遇いたい、宗教的目覚めを求めている叫びである」と書かれてありました。言われてみれば、そうかもしれないと思います。私たちは出遇うべきものに出遇えていないから死に切れないのです。何か出遇うべきものに出遇っていないという思いが死にたくない、長生きしたいという叫びのなかにあるのです。無量寿の世界に巡り合いたい。真宗でいうなら、お念仏の世界に巡り合いたいということが、死にたくない、長生きしたいということの中で叫ばれている。宗教的目覚めを求めている叫びであるのですね。

大分県の医療関係者に、仏教の話を少し紹介したことがありました。ある町立病院の外科の院長先生が「仏教は今しかないといって困るではないですか。私たちは明るい未来がある、明るい明日があるということが、今を生きるエネルギーになっているのです。明日がないと言われたら困ります」と言われました。非常に素直な質問です。私たちは「明日こそ幸せになろう」と言いますが、今日は明日のための準備になっています。パスカルは、「明日こそ幸せになるぞと、みんな死ぬまで幸せになる準備ばかりで人生が終わっている」と言っています。それぐらい、明日の欲しい人たちは、今が不足、不満、欠乏になっているということです。今は満足ではないわけですね。宗教的目覚めという世界に出遇えたら、そこに「出遇うべきものに出遇ってよかった」と言って、「知足」という世界に導かれるのです。

私たちは、いつも過去のことをいろいろ考えるわけです。「あの時に、ああしておけばよかった」と後悔をするか、「過去には、私はこんな高い地位にあった」と過去を自慢する。終わったことを持ってきて、あれこれ言うのを持ち越し苦労というのです。その一方では、まだ起こっていない未来のことを心配することを、取り越し苦労というのです。よく考えてみたら、私たちはいつの間にか取り越し苦労、持ち越し苦労で、今という時間はあっという間になくなってしまっているのです。気付いてみれば、あっという間に50年が過ぎ、60年が過ぎ、80年が過ぎた、「むなしく過ぎた」というのです。「本当によかった」という世界には出遇えない。それぐらい、私たちの分別でいったら今という時間はとらえどころがないのです。しかし、お念仏の世界をいただいてきますと少しずつうなずけてきます。

「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」というのが『歎異抄』の第1章にあります。南無阿弥陀仏のいわれを聞き開いて、念仏するものを浄土に迎えとるぞの本願のお心を本当にいただいて、私の思いを翻して、仏さまの教えのごとくに生きさせていただこうというこの一瞬に永遠と通じる豊かさをいただくようになるのです。

私たちはどうしたら、本当のお念仏の世界に出遇えるかというと、お念仏の心を聞いていかないとわからないですね。お念仏の世界に出遇うことは、無量寿、永遠という世界に出遇っていくことです。永遠という世界に出遇ったらどうなるかといったら、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもお任せしますとなってくるのです。

「いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、お任せします」というふうになってきたら、死ぬほうに傾くかというと、そうじゃないのです。この私が多くの恵みによって生かされているということがわかってきたら、その恩に報いる行を、私たちはするようになっているのだというのです。報恩行をする。だから早く死んで楽をしたいのではないのです。「少々の苦労があっても、私は仏さまから頂いた仕事を精一杯させていただきます、南無阿弥陀仏」というふうに展開していく。できることなら少しでも長生きして、仏さんのお手伝いをさせていただきます、というふうになっていくのです。これが、私たちが「いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、お任せします、南無阿弥陀仏」になってきた人たちの生きざまなのです。そしてその人たちは、「明日はあってもよし、なくてもよし。今生かされていることを精一杯させていただきます、南無阿弥陀仏」になってくる。出遇うべきものに出遇って、今を大事にしていくのです。この私の見えるいのちは、見えない無量寿によって生かされているということです。

私のところに、元教師の方が、糖尿病と高血圧と慢性肝炎で週に3日ほど注射に来ているのです。この先生は真宗の門徒さんですから、「先生、せっかく真宗の門徒さんだったら、老病死のいろんな愚痴を言わないで、仏教の勉強を少ししてみませんか」と私が誘いをかけました。そしたら82歳になる先生がこう言った。「わしはまだ、仏教の勉強をするには早い」と。そこで私が、「先生、浄土はどう思われますか」と言ったのです。そしたら「浄土なんてどこにありますか。地図の上にどこにもないじゃないですか」と言うわけです。そこで「先生、明日はあると思いますか」と聞いたのです。そしたら確信を持って「いやあ、そりゃ明日はありますよ」と言われました。「では先生、明日を見せてください」と私が言ったらきょとんとしていました。

これはどういうことかといったら、「明日」と「浄土」というのは似ているのです。明日というのは場所の概念ではないでしょう。まだ来ていない、今のことを明日と言うのです。浄土というのも場所の概念ではないのです。私の迷いの覚めた「今」なのです。先ほどの、卵がかい割れた今なのです。だから場所の概念ではないのです。妙好人の才市は、「浄土はどこか。ここが浄土の南無阿弥陀仏」と。お念仏が出てくれるところが浄土なのだと言ったのです。そのお浄土に出遇うということが、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」に、浄土に出遇うのです。「明日はあるけど、浄土はない」という一貫性がないのを、仏教では智慧がないというのです。現代人は「浄土なんてどこにありますか」と言うけれども、「明日はありますよ」と言うでしょう。明日もどこにあるかわからないのです。ないのです。今、今日しかないのです、私たちにとっては。

本当に出遇うべきものに出遇ってよかったとなってきたら、死なないいのちを生きていくというようになってくるわけです。死を超えていくのです。南無阿弥陀仏のお念仏の世界は、ものすごく大きい世界なのです。だから出遇うべきものに出遇ったら、「もういつ死んでもいい。いつまで長生きしてもいい。お任せします」です。「浄土の世界に生まれる者は、本当の長寿が実現できます。ただしいのちの長い短いにとらわれる人は除く」と書いてある。私たちが本当に願っている長寿とは、生きている時間を延ばすことではなくて、「いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい」という、いのちの長短にとらわれないような、今を生きるということが、私たちが願っている本当の長寿です、と仏教は教えてくれているわけです。今の医学でできるだけで、病気の治療を受けて、長生きさせていただくこともしないといけない。でも、それがうまくいっても、うまくいかなくても、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいいという、永遠と通じる一日一日を生きていくということにおいて、本当にそこに私たちが願っている長生きということが実現できるわけです。みんな量を延ばす長生きだったら、敗北ですね。

ですから私が言っている医療と仏教の協力というのは、人間の苦しみ悩みを取るというのも、医療と仏教の協力が必要だ。健康で長生きということも、本当に医療と仏教が協力して初めて実現できるのだという、こういうことが多くの人たちに共有できるというかたちが、今本当に求められていることです。

東本願寺の専修学院の院長しておられた信国淳先生は宇佐の出身の方で、私たちの郷土の先輩なのですが、この先生が本の中でこう書いています。「年を取るというのは楽しいことですね。今まで見えなかった世界が見えるようになるのですよ」と。見えるいのちは、見えないいのちに支えられているという、おかげさまとか、もったいないという見えない世界が見えてくるということが、仏教の智慧をいただくことなのです。そのことを通して、地獄・餓鬼・畜生の世界を生きていた私たちが、本当に人間になっていく。人間として成熟する道に導かれていくのだということを教えてくれているわけです。

私たちが人間に生まれた意味というのは、人間の格好をしていながら、人間になれていなかった歴史があったのを、仏法に出遇って本当の人間になっていくのです。そして私たちの生きる道は、不幸の完成になっていくのではないのです。私たちが人間として成熟して、本当の人間になって、完成した仏さまになっていくという歩みが、私たちの生きるという意味なのです。不幸の完成で人生を終わるか、仏さまになっていく世界か、どちらが豊かか。最後は不幸の完成で終わるという人生に、いつの間にかなろうとしているのは、本当にさびしい状態ですね。死んでいくこともお任せしております、南無阿弥陀仏で、何の心配もないという世界。それは圧倒的に大きい世界に本当にうなずけていくときに、それはごく自然に、「私は生かされていることを、精一杯生きさせていただきます、南無阿弥陀仏」で尽きる。ここに医療と仏教が協力をして、本当の人間の苦しみ、悩み、そして健康で長生きということも、このことにおいて本当に実現できるのだということを、仏教は教えてくれている。医療と仏教は協力をして、この生老病死の四苦の課題に取り組んでいくということが、本当に大事な時だということを思わせていただくことであります。

時間が来ました。これで終わらせていただきます。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

田畑正久先生

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