ある念仏者が「一生は聞(もん)に極まる」と言われました。仏法を聴聞することが大切な人生を決めていくということでしょう。しかし、「教えを聞く」ということが大変難しいのです。何が難しいのかと言うと、教えが難しいのではなく、実は教えを聞く人間が難しいのです。
私たちは常に思い通りにしたいという「自分の思い」を心根として生きています。仏教の言葉で言えば、我執(とらわれ)の心といっていいでしょう。私たちはその自分の姿に疑問をもつことなく、その心根で教えも聞くものですから、自分の都合にあった法話を聞いた時はいい教えであり、自分の都合に合わないことを聞いた時には、教えを批判したり拒絶したりする根性さえもっているのです。そういう私たちのあり方を照らし出すのが仏教の言葉なのですが、なかなか照らし出されないのは、それほどまでに私たちの思いが頑固だからです。
蓮如上人は「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」(一句一言の教えの言葉を聴聞するにも、とかく人は自分の都合のよいように聞くものである。だから、いちずによく聞いて、心に受け取ったままに話して、教えを聞く仲間と互いに語り合うべきである)とおっしゃり、得手に教えを聞いてしまう(意功に聞く)ことの対応として、座談の大切さを説かれています。また、都合よく聞いてしまうわけですから、「わかった」とは簡単には言えません。ですから上人は「くり返し聴聞せよ」ともおっしゃっています。
つまり教えを聞いたら仏教がわかるというのではありません。自分自身がわかるのです。私たちが仏教を明らかにするのではなく、仏教が私たちを明らかにしているのです。このことをまずはっきりすべきでしょう。
この文章は、『仏教家庭学校』(教育新潮社、2008年、秋季彼岸用・伝道用施本)に掲載された蓮光寺住職執筆の「聞からうまれた我」の一部を転載したものです。
参考資料: 『蓮如上人御一代聞書』