私の好きな作家は「完璧な文章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」と著書の中で述べている。完璧な絶望の定義は私には理解できないが、完璧な絶望がないなら対極にある完璧な希望も存在しないのではとふとした瞬間に考える。
人生において希望や絶望は観念的なもので一概にその状況を取り上げて善悪を決められるものではないのかもしれないが個人がその状況を絶望という側面でしか捉えられなくなった時、どう行動したらよいかということを書いた本に私はまだ出会ったことがない。
そんな漠とした不安の中、ホームページを見て出会ったのが四谷荒木町の「坊主Bar」であった。荒木町は、昔様々な植木が運ばれたことで荒木新町と呼ばれ、明治になって滝見の茶屋が有名になり風情のある芸者街として栄えた由緒正しい場所であるそうだ。
そんな格式高い場所にあり、お坊さんが経営しているバーに若輩者の私が行って良いのかという不安があったのは言うまでもない。しかし大きかった不安が徐々に興味に変わった頃、意を決し坊主バーの扉を開いたところに待っていたのは、オーナーである田口僧侶や藤岡さんをはじめとした暖かいスタッフであった。
そこは、御仏とお酒という日常では絶対にコラボレートしないであろう両者が融合しお客に溶け込んでいる空間だった。そして田口僧侶と様々な話をしていく中で、人生とは何かを考えるきっかけを作ることが出来た。これまで思い通りになることが大事だと思ってきたが、事実は思い通りにならないと考え生きることが大事だということも学んだ。さらに田口僧侶の紹介で門徒倶楽部に迎えて頂き、聞法会で親鸞について学んでいる。
門徒倶楽部で「歎異抄」を読んでいて出会った一文がある。「よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願たのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」現代語訳をすると、たとえ本願に甘えて犯したことも人間には知り得ない必然性があれば良いことも悪いこともその必然を受け入れて本願に任せて立ち上がることが他力ではないかというものらしい。
この本願ぼこりによって行ったことも必然があれば受け入れて立ち上がるという他力の発想に私は何ともいえない憧憬の感情を持たずにはいられない。
私は坊主Barへ続く細い路地に入った日を一生忘れないと思う。同時に門徒倶楽部とのご縁も一生涯続けていけたら良いと心から願う。