蓮光寺報恩講 2007 日中法要
2007年11月3日(土)
講師: 宮戸道雄先生(滋賀県、慶照寺住職、76歳)
テーマ:「人間の建設」
(2008年7月28日改訂)
宮戸でございます。今日は皆さまのお手元に「元服」という、中学校3年生の子どもさんが書いてくれた作文をお届けいたしております。元服とは一人前ということでしょうね。この「元服」という作文を読みながら、「人間の建設」という題で少しお話を申したいと思っております。
今年1月、大垣のあるお寺から「成人式をやるから、お話に来てほしい」と言われました。私は成人式だから二十歳ぐらいの若いお嬢さん方がいっぱいいると思って喜んで行ってみたら、60歳以上のおばあさんばかりでした(笑)。「成人はおらんのか」と聞いたら、住職が、「60歳になって成人ということがあるのですよ」と言われました。なるほど、それはそうですね。
あるおばあさんに、「八十半ばを過ぎて、人生を振り返ってどうだった?」と聞いたら、「長いこと生かしてもらったけど、人生ってこんなもんか」と言うのです。そして「こうなったら、せめて家で死なせてほしい」と言うのです。私は「せめて、人間になってから死にたいと言わんかい」と答えました。60歳まで生きて、仏法によって育てられて、本当の意味でやっと成人です。皆さん、人間になって死にたいじゃないですか。そういう意味で、「人間の建設」ということが、宗教ということの勉強だと思います。
この間イラクから帰ってきた、広島大学の教授をしている方がいろいろと話をしてくれました。「イラクは、国中が戦場になっていて、いつ、どこで爆弾が破裂するか分からないけれども、イラクの人々が住んでいる家庭は、大変きずなが深くて暖かい。それに比べて、日本ほど表面上は平和な国はないけれども、家の中が戦場になっている国もまたない」と。こう言われまして、私は本当に胸にこたえました。どうですか、皆さん方のご家庭は戦場にはなっていませんか。こういう川柳がありました。「近ごろは金属バットが斧になり」、また「僕の家暖かいのは便座だけ」というのもありました。まさに家が戦場という雰囲気でございます。これは、私たちの家の中に宗教というものがなくなったのだと思います。もっと言うなら、宗教がわからなくなった時代です。
あるアメリカの宗教学者が、「宗教が世界の病気とか、人間の病気を治すなんていうことを言う資格があるか。宗教自身が病気になっているではないか。宗教の病気をブラックボックスと言うのだ」と言っておりました。「うまいことを言うな」と思いましたね。ブラックというのは、暗いという意味でしょう。ボックスは箱。宗教はブラックボックスになっている。暗い箱という意味は、中身はよくわからないという意味です。仕掛けがわからない。つまり、本尊は何でもいいのです。麻原でもいいのです。狐でも、鰯の頭でも何でもいいのです。ただ、ご利益があればいいのです。そういうことをブラックボックスといい、そういうものを宗教だと思っているのではないですかね。どうでしょうか、親鸞聖人はそういうものを、「人間を屍(しかばね)にしてしまう」と言っておられます。
先般、こういう人に会いました。もう50歳手前の奥さんです。どうも調子が悪いのです。「ああ、更年期だな」と思いました。でも本人はそんなことを思っていません。半年も医者へ通っていたが治らないのです。看護師がこんなことを言っていいのかと思うのですけれど、「奥さん、あなたがすっきりしない原因は、別のことにあるのです。あなたは、子どもをおろしましたね。その水子の供養ができていないから霊がついていて、すっきりしないのです」と奥さんに言われたそうです。ズバリでびっくりしましたね。それで、看護師に指示された所へ行って見てもらったのです。「これが治るには、2年ほどかかりますが、もっと早く治してあげましょう。毎日お祈りをしますから、1年で治るようにしてあげます。1日1,000円として1年分の36万5千円を持ってきなさい」と言われたそうです。それで困った奥さんは私に相談にこられて、「そんな金はないので、どうしましょうか。家に仏壇があるから、家で供養したいです。どうしたらいいでしょうか」と言われるわけです。私は「奥さん、36万5千円という話は、おかしいのと違いますか。子どもをおろして好き勝手なことをしておいて、自分の都合が悪くなったら『水子が祟っている』と。そんな、あんたは厚かましい、そんな虫がいいとことありますか。あなたは『水子を何とかせねばならない』と言っているでしょう」と申し上げました。何もこの人に限ったことではなく、こういう意識は私たちも持っているのですが、「あいつを何とかしなくてはならない」という意識が、いかに間違っているかということに気がついているかどうかですね。もし、水子の供養をすることによって自分が治るということを宗教というならば、人間を無責任、厚かましい、責任転嫁をするようなずるい人間ばかりをつくるのが宗教であるということになってしまいます。しかし、現在はそういうふうに宗教が変なことになっているから、日本もおかしくなってくるのではないでしょうか。宗教というものは人間を建設するものです。これが宗教というものです。みなさんはいかがですか。私はどうなりたいのか、私をどう育てていくのかという、建設的な心を失ってしまってはいませんか。
中学校3年生が書いた作文の「元服」、これは東井義雄先生の本(『子どもを見る目・活かす知恵/若い教師への手紙2』 明治図書)から抜粋したものです。読んでみましょう。
ぼくは今年三月、担任の先生からすすめられてA君と二人で○○高校を受験した。○○高校は私立ではあるが、全国の優秀な生徒が集まって来ているいわゆる有名高校である。担任の先生から君たち二人なら絶対大丈夫だと思うと強くすすめられたのである。ぼくらは得意であった。父母も喜んでくれた。先生や父母の期待を裏切ってはならないと、一生懸命勉強した。
ところが、その入試で、A君は期待通りパスしたが、ぼくは落ちてしまった。得意の絶頂から奈落の底へ落ちてしまったのだ。何回かの実力テストでは、いつもぼくが一番でA君がそれに続いていた。それなのにぼくが落ちてA君が通ったのだ。
誰の顔も見たくないみじめな思い。父母が、部屋にとじこもっているぼくのために、ぼくの好きなものを運んでくれても、優しいことばをかけてくれても、それが、よけいにしゃくにさわった。
何もかもたたきこわし、ひきちぎってやりたい怒りに燃えながら、ふとんの上に横たわっているとき、母が入ってきた。『Aさんが来てくださったよ』という。ぼくは言った。『かあさん、ぼくはだれの顔も見たくないんだ。特に世界中で一番見たくない顔があるんだ。世界で一番いやな憎い顔があるんだ。だれの顔か、言わなくたってわかっているだろう。帰ってもらっておくれ。』
母は言った。『せっかくわざわざ来て下さっているのに、かあさんにはそんなこと言えないよ。あんた達の友達関係って、そんな薄情なものなの。ちょっとまちがえれば、敵味方になってしまうようなうすっぺらいものなの。母さんにはAさんを追い返すなんてできないよ、いやならいやでソッポを向いていなさい。そしたら帰られるだろうから。』と言っておいて母は出て行った。
入試に落ちたこのみじめさを、ぼくを追い越した事のない者に見下される。こんな屈辱ってあるだろうかと思うと、ぼくは気が狂いそうだった。
いいですね、このお母さん。「あんたたち、友だちの関係ってそんなに薄情なものなのか」。どうでしょうか。「昨日の敵は今日の友」と言うけれども、逆ではないですか。「今日の友は明日の敵である」。友だちと言いますけれども、案外そうなってはいないでしょうか。
このあとA君が彼の部屋に上がっていきます。ては、続きを読みます。
二階に上がってくる足音が聞こえる。ふとんをかぶって寝ているこんなみじめな姿なんか見せられるか。胸を張って見据えてやろうと思ってぼくは起き上がった。戸があいた。中学の三年間、A君がいつも着ていた、くたびれた服のA君、涙をいっぱいためたくしゃくしゃの顔のA君が。『B君、ぼくだけが通ってしまって、ごめんね。』やっとそれだけ言って、両手で顔をおおい、駆け下りるように階段を下りていった。
ぼくは、はずかしさでいっぱいになってしまった。思い上がっていたぼく、いつもA君になんか負けないぞと、見下していたぼく。このぼくが合格してA君が落ちたとして、ぼくはA君をたずねて、『ぼくだけ通ってしまって、ごめんね』と泣いて慰めに行っただろうか。『ざまあみろ』とよけい思いあがったにちがいない自分に気がつくと、こんなぼくなんか、落ちるのが当然だ、と気がついた。彼とは人間の出来が違うと気がついた。通っていたらどんなおそろしい、ひとりよがりの思い上がった人間になってしまったことだろう。落ちるのが当然だった。落ちてよかった。本当の人間にするために、天がぼくを落としてくれたんだ、と思うとかなしいけれども、このかなしみを大切に出直そうと、決意みたいなものが湧いてくるのを感じた。
ぼくは、今まで、思うようになることだけが幸福だと考えてきた。が、A君のおかげで思うようにならない事の方が、人生にとって、もっと大事なことなんだという事を知った。
昔の人は十五才で元服したという。ぼくも入試に失敗したおかげで、元服できた気がする。
どうですか。こんなこと言えますか。中学3年生です。すごいですね。この文章がまさに「人間の建設」というものの具体的な実例なのです。
私はこの作文は、仏の経典だと思います。お念仏でたすかるということは、こういうことです。A君が「僕だけが通ってしまってごめんね」と言いました。この「ごめんね」という言葉は、「B君、私は君と一緒に入りたかった」という、いのちの言葉です。その真実の言葉にふれたのです。その一言によって、何が起こったのか。「僕は恥ずかしさでいっぱいになってしまった。思い上がっていた僕。いつも、『A君なんかに負けないぞ』と見下していた僕。この僕が合格して、A君が落ちたとして、僕はA君を訪ねて、『僕だけが通ってしまってごめんね』と泣いて慰めに行っただろうか。『ざまあ、みろ』とよけいに思い上がっていたに違いない自分に気がつくと、こんな僕なんかは落ちるのが当然だと気がついた。彼とは人間の出来が違うと気がついた。」と。ここに「気がつく」という言葉が3回出てきます。皆さん、この言葉を大事にしてください。「僕だけが通ってごめんね」という、これは仏様の大悲の心ですね。「共に、一緒に行きたかった」、こういう真(まこと)の言葉にふれて、真のない自分というものが見えたのでしょう。
私は「人間の建設」ということには3つの関門というか、法則があると思います。
第一に「自分の発見」だと思います。人間が建設されるということは、自分を発見するのです。どういうふうに発見するのでしょうか。「私は否定されるべき者だった」と自分を発見するのです。これは大事なことです。その発見というものを通して、次に出てくるものは「急転」です。急転ということは、方向転換と言ってもいいのですよ。布団をかぶって「恥ずかしい」と言っていたのです。ところが、「僕は恥ずかしさでいっぱいになってしまった」と言っている「恥ずかしい」のは、試験に落ちたから恥ずかしいと言っているのではないでしょう。自分にとって、自分が恥ずかしいのです。そういう発見です。恥ずかしさの質のちがいです。ここに質的転換ということがあるのです。質の転換です。蛇は、どんどん大きくなるために皮を脱ぐでしょう。蛇が皮を脱ぐというのは、大きくなるために皮を脱ぐのです。脱皮するのです。何回皮を脱いでも蛇は図体が大きくなるだけです。ところが、セミが皮を脱ぐと違うのです。セミは五年も六年も土の中の闇の中にいて、脱皮すると羽が生えて大空を飛び歩くじゃないですか。質が変わるのです。蛇は変わらないでしょう。セミは異質なものに変わるのです。このことは大事です。まず発見で、次に「急転」です。「恥ずかしかった」と言っていた者が、「落ちてよかったんだ」と、ころっと変わっているでしょう。そして「浄化」です。こういう3つの法則がございます。
最初の「発見」からですが、京都大学の西田幾多郎という哲学の先生がおられます。私の父親が、西田幾多郎の弟子でございまして、いつでも西田幾多郎の話ばかりをしておりました。西田幾多郎の弟子に、田辺元という人がいます。京都大学の哲学の主任教授だったのです。終戦、まもなく亡くなりました。親鸞聖人のことをよく勉強なさっていて、『懺悔道としての哲学』という本を書きました。なかなか噛み応えがあって、その中で、「弥陀の大悲は、大非の心である」と言っています。これは、この本の中心の言葉です。弥陀の大悲のはたらきに出遇うと、私のあり方は「非」でしかなかったという懺悔ですね、「非」という字について、『説文解字』という字引を引きます。『説文解字』という字引は、今から1800年も前に中国の許慎という人が、「字というものは、なぜこう書いて、こういうものか」ということを理論的に解釈したものを説文というのです。それには、「『非』という字は鳥が空を飛んでいって、地面へ降りてくるときの姿を表している。地面に降りてくるときには、両方の羽をだらんと垂らして、大地に下りるようになっている。だから、『非』というのである」に出ています。「非」という字は背くものということです。背くということは、鳥の羽は両方に背くことでしょう。こちらは右へ、こちらは左に向いている。背くという意味です。何に背くのか。仏(ぶつ)に背いている。人間に背いている。そういう生き方の姿を「非」という。それに「大」をつけてありますから、仏様のお慈悲に遇うということは、大いなる否定に遇うということです。
私のお寺は米原駅からすぐ近くの多賀町です。人口が1万人に満たぬ小さな町です。どこにも合併しないといって頑張っています。そこの教育長が私の寺にたびたび来て、「今度、夏休みになったら、多賀町の公立小学校、中学校、幼稚園の先生方の全体研修をやるから、一度お寺を会場に貸してもらいたい」と言うのです。「どうぞ、使ってください。でも何をするのですか」と聞くと、『何をするのか』って、お寺を借りて研修をするということは、住職が話をすることに決まっているではないですか」と言う。「私に話をさせてくれるのか」、「あんたに話をしてもらおうと思って、お寺を選びに来たのです」と。これはうれしいことではないですか。私もうれしかったですよ。今年の8月1日だったのです。おばあちゃんとおじいちゃんばかりしか参らないお寺に、小学校の現職ばかりの先生方でいっぱいになったのです。そこで、「言葉」について話をしました。聞いただけで、私がひっくり返させられるような言葉は力があり、生きています。だから、田辺元氏が、「仏様の大悲の心を聞かせてもらうことによって、私が大いに背いている。道理に背いている。そういう私に、自分に出遇うことだ」と言われた。田辺元博士は、親鸞聖人の教えを聞いた了解の書物である『懺悔道としての哲学』の中で、「如来の大悲は、大非の心だ」とおっしゃったわけです。「弥陀の大悲」ということは、私のあり方を徹底的に切り込んでくるのです。自分が道理に背いているわが身であるということを徹底的に教えられる。これが弥陀に遇うということです。
皆さん、お内仏(お仏壇)をよく見てください。阿弥陀如来の絵像の左右に、九字と十字の名号があります。名号とは、阿弥陀如来が実体としてあるのではない。つまり、この私を徹底的に照らして、本当の私の姿を知らしてくださるはたらきです。そういう意味で、3つに分けているのです。もう一度、言いましょうか。真ん中にいらっしゃる阿弥陀如来は光の仏さまだ。私のあり方を知らしてくださる仏さまですよ。知らす力を、はたらきを仏というのです。そういう意味で、3つに分けてあるのです。
「僕だけが通ってしまってごめんね」。「ごめんね」という真(まこと)の言葉に照らされて、まことの一点もない自分だということに目が覚めるということです。これが、「発見」ということです。自分では、自分が見えないのです。自分の座っている座布団を自分の力であげようというのは、無理です。
そこのところを蓮如上人は「衆生をしつらいたまう。しつらうというは、衆生のこころを、そのままおきて、よきこころを御くわえそうらいて、よくめされなし候う。衆生のこころを、みなとりかえて、仏智ばかりにて、別に御したて候うことにては、なくそうろう」とおっしゃっています。「しつらう」というのは、お客さんが来るからお部屋をしつらえて、整えてというでしょう。「人間の建設」というのは「しつらう」ということ、つまり、人間を育てていくという意味です。「衆生の心をそのまま置きて」とは、止めようとしても止められない。しょうがないですね、人間の心から出てくるものはとめようがないが、そのままおいておけ。「よきこころを御くわえそうらいて」とは、仏さまがお加えくださるのです。これは大事なことです。だから、仏さまに出遇うということは、よき心を加えていただくということです。よき心が加えられるということはどういうことかというと、恥ずかしい自分というものに気づく眼を開かれるということです。仏さまの心が、私の眼を開けてくださる。これを信心というのでしょう。
仏さまによって発見されるのです。私が発見するのではありません。仏さまによって私は否定されるべきものであったと発見されるのです。そうすると、そこから急転です。急転ということは方向転換なのです。この場合は、「落ちたことが恥ずかしい」と泣いていた人が、「落ちてよかった」という落ちた事実を引き受ける身になっているでしょう。急転するのです。
皆さんに反発を買うかもしれませんけれども、信心をいただきますと、どんなことでも辛抱ができるのです。「私が我慢しているから、私が辛抱しているから、うちの嫁がおれるようなものだ」。大体、おばあさん連中は絶えず言っておりますね (笑)。いつもこのようなことを私は聞いているものですから、「あなたは『私が我慢しているから嫁が持つとか家が持つ』と言っているけれども、私があなたのところに行くと、嫁のほうがよっぽど我慢しておるぞ」と言います。本当に空しいことです。それに対して「あの人が我慢してくれとるから、わしが置いてもらえるんだ」と、こういうのが真宗の信心やという話をよう聞きます。そりゃ、そうですね。そこまで行けばたいしたものですよ。皆さん、どうですか。一辺もそんなことを考えたことないですか。これはまた広い世界です。でも「あの人が我慢してくれとるんです。私は我慢できないのです」と言うだけで、私は我慢せんでもいいのでしょうか。そこも一度くぐらねばならないですね。
「信心があったら、どんな問題でも耐えていける」。もっと別の表現をしますと、「人生に目標がはっきりしたら、どんな状況でも耐えていける」ということです。目標がはっきりしていたら頭を下げるでしょう、下げてきたでしょう。子どもを育てるために、少々嫌いな人にでも頭を下げてきたでしょう。「勘任不退」という言葉もあります。下げていくのです。ところが、人間は情けないことに、その目標がちょいちょい変わるからいけない。目標が消えるのです。どうですか、皆さん。お年寄りだったら、目標は何ですか。子どもも済んだし、家も建ったし、あとは何か。どうかね? 旅行とグルメばかりか。目標があらへん。それでぼけたような顔をしてしまう。目標とは何かといったら「人間の建設」なのです。私は一体何になりたいのか。これが、はっきりしていますか。私が仏にさせていただく、往生をさせてもらう。この私を建設していく。目標がございましたら、辛抱せねばならないということではないのです。私を往生、成仏という、人間を建設していくための、大きな仏さまのおはたらきに出遇うのです。我慢する必要がないのです。なぜか私の求道の大きなエネルギーになっていくのです。信心が抜きになっているから我慢ができないのです。本当の信心がございましたら、若い者と暮らしておったって、何でもできるのです。ここにお念仏、積極性というものがある。お念仏の教えを聞いて、「ありがたい」、「ありがたい」。そういう恩寵的な話ではありません。この現実の中を、どんな苦しみの中にあっても、それを受け入れて、それによって自分が育てられていくのです。我慢ではない。エネルギーになる。
親鸞聖人がお嫁さんをもろうて、家庭を持たれたということは、毎日ゴタゴタしたことが起こる現実のなかに生きたということです。家庭のゴタゴタしたことが、実は私の仏法を聞くご縁になるのです。これが「人間の建設」です。それでは「元服」の最後のところをもう一度ふれておきましょう。
「僕は、今まで思うようになることだけが幸せだと考えてきたが、A君のおかげで、思うようにならないことのほうが、人生にとってもっと大事なことだということを知った」。
どうですか。思う通りにならんことのほうが、人生にとって大事です。どう、大事なのですか。なぜ大事なのですか。「大事」の上に「一」をつけて「一大事」ということに関係があるのです。私たちは、何でも思う通りにしよう、思うようになったら幸せだと言っているのでしょう。それが、実は思う通りにならんでしょう。
靴は自分の足に合ったものを買います。合わない靴はポイです。それでよいのですが、しかし長い人生の中で、誰でも足に合わない靴を履かされるものです。履き替えできないのです。靴ずれや、まめを造って泣きながらでも履かねばなりません。つまり「思うようにならない事」です。それが大事だとは何でしょうか。「人間の建設」のエネルギーになるかどうかです。
この間、俳句に出遇い、五分ほど動けないほど、自分がつかまれるような一句に出遇いました。ちょっと紹介しておきます。
雪の下 朽ちてゆくもの 萌ゆるもの
「雪の下」とは、上から押さえつけられて、思う通りにならないということです。その思う通りにならない人生に、ただ朽ちゆくのか、新しい芽を吹き出そうとするのか、皆さんはどちらですか。雪の下敷きになって、「ああ、わしはなぜこんな運命か」と言って、自分の人生を呪うて、朽ちていくのですか。そうではなくて、朽ちゆくものであった私が、思うようにならないことのほうがもっと大事なことなんだということを知って、人間として育てられていくのか、ここが一大事です。宗教の本質は、このように「人間の建設」にあります。私たちは人間になって死んでゆくことができるかどうかが問われているのです。
今日は「人間の建設」ということで皆さんと考えてまいりました。どうぞ「元服」をご家族で読んで、語り合っていただければと思います。
2007年「真夏の法話会」での田畑正久先生(大分県・佐藤第二病院院長)のご法話は、次号に掲載いたします(9月発行予定)。