あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

今、いのちがあなたを生きている

安心して迷える道に立つ

私自身は、御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」の呼びかけに対して、「安心して迷うことのできる道に立つこと」と応[こた]えます。つまり、御遠忌テーマは、生活情況にふりまわされて、苦悩し疲れきっている私たちにかけがえのないいのちを回復し、不安のままに安心して立ち上がっていくことができる真の立脚地(大地)を語りかける言葉だと感じているからです。

ですから、その大地は単なる「ある」ではなく、苦悩の現実を引き受けられない私たちのあり方にはたらきかけて、孤独と空しさを生きる意欲に転換せしめるのです。結局のところ、私たちは自分のすべてを無条件に包み、認めてくれる大地に出遇[であ]わなければ、自分の現実を受け止められず、むなしく生きていくほかないのです。しかし、この大地を得たならば、その苦悩の現実を受け止め、安心して迷っていける道に立つことができるのではないでしょうか。

この存在の大地を「いのち」と表現しているのでしょう。伝統的な言葉を用いるならば、「いのち」は「本願」であり、またその本願が名となってはたらくのが「南無阿弥陀仏」(本願の名号)であり、本願念仏の信において「浄土」(無量寿・無量光=無量光明土)の世界が開かれると教えられてきました。迷っているなら迷うままに、悩んでいるなら悩むままに、安心して苦しみを超えて生きていける本願のはたらきが大地となってすでに私たちを包み(無量寿)、自己への執着の闇を破ろう(無量光)とはたらき続けているのです。換言すれば、限りなき慈悲と智慧が私自身の存在となってはたらき出ているのです。それは、私たちの心の奥底に脈打つ深いいのちのよび声(南無阿弥陀仏)として響いてくるのでしょう。

愚かで、悲しむべき自分自身に目覚めて、救われ難い有限なる命を担って共に歩もうと語りかけてくる本願のはたらき(「いのち」)に感応して生きるということが、「願生[がんしょう]浄土」と表現される浄土に開かれた生活内容なのでしょう。自分自身を深く悲しむところにこそ、我も人も共に生きる世界を見いだす眼が与えられ、ともに聞法し励まし合う同朋の生活が開かれてくるのではないでしょうか。

「今、いのちがあなたを生きている」から「安心して迷うことのできる道に立つ」ことが可能なのであり、「安心して迷うことのできる道に立つ」ことが可能なのは「今、いのちがあなたを生きている」からです。さて、あなたは御遠忌テーマにどうお応えになりますか?

この文章は、『名古屋御坊』(名古屋別院発行)2007年4月号に掲載された蓮光寺住職執筆の「御遠忌テーマに思うこと (3)」を転載したものです。

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