あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

門徒随想

先日、道の端を歩いていて、幅寄せしてきた車に片足を引かれた。大事には至らなかったが、ナンバーがわかったので、警察に通報した。手配で捕まったドライバーは暴力団員で、事故の瞬間の目撃者がいないことをよいことに「止まっていたら、この男がよろけてきた」とか、「この男は車体に傷をつけた。訴えて弁償させる」などと言い立てて、事故を隠そうとする。何といっても驚き呆れたのは、事故処理に現れた警察官の言動だ。私の靴やズボンにタイヤの跡がはっきりついているのに、加害者の言い分を完全に鵜呑みにして「お前が事故を捏造したのだろう」と暴力団員といっしょになって、私を叱り飛ばすのである。

自らの危険を顧みずに、通り魔事件の被害者を救護したり、自殺志願の女性を踏み切りから助け出したり人と本当に同じ組織の人間なのかと疑いたくなる態度だ。こんな奴に拳銃と警棒をあずけているのだから治安も悪くなろうというものだ。激しい恫喝の前に事故届けの提出は断念せざるを得なかった。

私は金も地位も権力もコネも健康の肉体も持っていない。真宗はそんな私がかけがえのないいのちとして、如来に願われていることを教えてくれた。しかし、私が願っている世界は裁く者と裁かれる者という関係の起こりえない場所=浄土ではなく、自分にとって正しい(都合のよい)裁きをしてくれるところ=娑婆である。こんな姿を親鸞聖人は「罪悪深重煩悩熾盛[ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう]」と言い当てておられるのではないだろうか。

私は市民生活の安全を守るべき警察官が、力の強い者にこびへつらい、弱い立場の者を足蹴にしたことを断じて許さない。これは世間の正論である。だが、新たな「裁く者」の出現を求める心は、六道流転する自分の思いから一歩も出ておらず、けっして「わが国に生まれよ」と呼びかける如来の誓願に応えるものではないことを親鸞聖人は明らかにしてくださる。そして、本当に私に求められているのは、自らの思いを超えてはたらいている阿弥陀のいのちに出遇い、喜び、手を合わせ、念仏申すことであると教えられているのではないだろうか。理不尽の体験のなかに真実の教えを聞く種が宿っている。

釋弘願 田口弘 47歳

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