あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

法話〔2〕 橋本正博先生

成人の日法話会 2007

2007年1月8日(月)

講師: 橋本正博先生(横浜市、智広寺住職、60歳)

テーマ: 人と成る道

人と成る道

人身受けがたし

こんにちは。ただいまご紹介いただきました、横浜から参りました智廣寺住職の橋本と申します。よろしくお願いいたします。

元日の朝、お寺の掲示板の言葉を張り替えました。「長く生きることを望む人は多いが、よく生きることを望む人は少ない」という言葉にさせていただきました。長生きしたい、金儲けをしたい、健康でいたい、子どもの受験が受かりますようにと、いろいろなことをお願いします。その願っている自分がどうなのか、どう願われているのかということを問題にするというか、気にする人はどれぐらいいるのでしょうか。そこに現代の大きな問題のひとつがあるのではないかと思います。

大島みち子さんという方がおられました。『若きいのちの日記」の作者で、『愛と死をみつめて』という映画の主人公です。大島みち子さんは21歳で亡くなりました。その大島みち子さんの言葉で、「人生長きがゆえに、尊からず。人生深きがゆえに、尊し」というのがあります。これも私の好きな言葉です。長生きを望みます。私もそうです。できれば長く生きたいと思っていますけれども、そんなことは分からないことであります。いつ、どこで、どうなるか分かりません。そういう中で、私も60年間生きてきました。でも本当に60年間何をしてきたのかなという思いもあります。同時に、「よく生きたい」、「深く生きたい」という願いもあるということも感じます。

今回、「人になる道」というテーマをいただきました。「人になる」ということは、「なっている」ということではないと思います。「人になった道」でもないですね。「人になる」ということは、これから先のことですね。「私は、人になりました」というと、人になった道になるでしょう。「人になる道」ということは、「今、私はまだ人ではない」ということです。そのことから、ではどうしたら人になれるのであろうか。そんなことを考えてみたいと思います。

「人となる」と言ったときに「恩徳讃」と 「三帰依文」を思ったのですが、今日は「三帰依文」を手がかりに考えさせていただこうかと思います。

「三帰依文」の最初に、「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く」とあります。読んで字のごとく、人の身ということです。皆さんはお誕生日をお祝いされると思います。「誕」という字は、「嘘偽り」という意味です。これが元の意味です。他には「大いなる」「生まれる」という意味も、辞書を引けば出てきますが、基本的には「嘘」という意味です。言べんに「延びる」ですから、要するに大風呂敷を広げるというようなことでしょう。誕生日と言いますけれども、「生日」でもいいのではないですか。それなのに、わざわざ、嘘という「誕」という字を付けているのか。私が勝手に思っていることですけれども、仏教から来ていると思います。

お釈迦様がお生まれになったことを、「降誕会[ごうたんえ]」と言いますね。一般には「花まつり」と言っています。要するにお釈迦さまのような、将来仏さまになるような方が、私たちと同じような人間界に生まれるということは嘘です。つまり、あり得ないことです。それを「誕生」と言うのです。私たちが、「誕生日をお祝いする」と言ったら、仏教的には将来仏さまにならなければいけない。犬や猫が産まれて、「誕生した」とは言いませんね。人間だけでしょう。ほかの生き物には、まず使わないのではないでしょうか。

本当にあり得ないようなものとして人間に生まれるという譬えをいくつかあげてみます。ひとつは、「盲亀浮木の譬[もうきふぼくのたとえ]」です。目の見えない亀と、浮いている木です。要するに目の見えない亀が、ずっと海のなかにいて、百年に一度、瞬間的に海面に首を出すのです。その海に木が浮いているのです。その木は、亀の頭が入るくらいの穴が空いているのです。それが海にどこかに浮かんでいるのです。亀が百年に一度、頭を出す。その、ひょっと出したときに、浮いている木の穴に首がすっぽり入るぐらいの確率で、人間に生まれるのは大変だという譬えです。

もう一つは、「恒河沙[ごうがしゃ]の譬え」があります。恒河というのは、ガンジス川のことです。ガンジス川のことを、中国人は「恒河」と訳しました。「沙」というのは、砂という意味です。ガンジス川は日本の面積の倍以上の流域を持っている川です。そのガンジス川の砂を握って広げます。砂が手に付きますね。人差し指の第一関節にも幾つかの砂が残ります。それが人間に生まれる数だというのです。ガンジス川のすべての砂と人差し指の第一関節と砂と対比しているのです。それだけ人間に生まれるということは大変なことであるという譬えです。だから「誕」なのです。嘘と言ってもいいぐらい、あり得ないと言ってもいいぐらいの確率で、私たちは人間に生まれさせていただいているのです。そういういのちをどう生きようとしているのかが問われているのではないかと思います。

仏法聞きがたし

それだけ大変なものとして生まれさせていただいた私たちですけれども、「仏法聞き難し、今すでに聞く」という、このこともまた大変なことです。今の地球上に60億人以上の人間がいます。仏教に出遇っている人はどれだけいるのでしょうか。仏教徒といっても、本当にその教えに出遇っている人がどれだけいるのでしょうか。それこそ現実の人間だけではなく、過去にずっと遡っていったら、本当に、私たちが仏法に出遇っていることが大変なことであると思います。

このようにして、与えられたいのちでございます。皆さんもご存じだと思いますけれども、お釈迦様がお生まれになったとき、7歩歩かれて、天と地を指さして、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと言われています。天上天下とは世界中ということですね。世界中で、私が一番偉いということではありません。世界で私はただ一人、かけがえのない尊い存在。要するに比べられない、比べる必要もない尊い一人で、そういう存在であるということに気がついたのです。それに気がついたら、私だけではない。すべての人がかけがえのないたった一人の、誰とも代わることができない存在であるということに気がついたという宣言だと思います。だからお釈迦さまだけのことを言っているのではないのです。私自身も「天上天下唯我独尊」です。本当に尊い。しかし、これは自覚があるかどうかです。「私は本当にかけがえがなく尊い」と自分で言えるかどうかですね。

『阿弥陀経』に、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。それぞれがそれぞれの色として輝いている。これが私たちのいのちの願いだと思います。青が青として光り輝くのです。青が赤になって、光り輝くのではないのです。青色が青色として光り輝く。自分は自分として光り輝くのです。ところが、現実の私たちはどうなのか。自分は赤であるにもかかわらず、「ああなりたいな」とうらやましがっていませんか。「白は嫌だ」と見下していませんか。どうでしょうか。自分が自分であればいいけれども、自分が自分としてなかなか生きられないのです。青は青、黄色は黄色、赤は赤、白は白、それぞれがそれぞれとして光り輝く。光っているということは、生き生きとして生きているということでしょう。私たちのいのちは、自分は自分としてほかのものになるのではなく、自分が自分として生き生きと光り輝くように生きていきたいというのが、私のいのちの願いです。そう思いませんか。今、私が私として生き生きと光り輝くように生きていますか。そう言って手を挙げられますか。これはなかなか難しいですし、大変なことですね。「これがいのちの願いです」と言うと、「そうだな」と思うのですが、事実はそのとおりに生きていないのはなぜでしょうか。比較するのです。私たちは他と自分を比べるのです。

比較の人生を生きている私たちに、「それでいいのですか」と投げかけてくださる言葉が、仏法の言葉です。勝ち組、負け組というのは、好きな言葉ではないですね。みんなも、「嫌な言葉だ」と言いながらも使っています。健康と病気。これも健康のほうがいい。病気はいけないという、いつの間にかそういう価値観が植え付けられてしまっています。本当は分からないのですよね。しかし、世間の価値観がそういうふうに押しつけているのです。「負けるより勝つほうがいい」、「貧乏より金持ちのほうがいい」。ないよりはあったほうがいいのかもしれませんけれども、金持ちはいいというふうには、必ずしもならないのです。

以前、ある先生からお法話でお聞きしたことです。一代で巨万の富をつくった商人のお話です。その商人が、「自分はこれだけの財産を残した。これを誰かに褒めてもらおう」と高い屏風を買ったのです。その屏風に一休さんに何か書いてもらおうと思って、持っていったのです。一休さんは書いてくださって、取りに行ったのです。「何と書いてあるかな?」と一枚ずつ見ていくのです。最初に、「あれをして」と書いてある。次には、「これをして」と書いてある。三つ目はまた「あれもして」。その次も「これをして」。履歴書ではないから、具体的に「何年何月からこういう仕事をして」と書かなくても、「あれをして」「これをして」とだけ書いてある。その商人は「一休さんは私の苦労を知ってくださっている。さすが名僧と言われる人だ」と思ったのです。最後は何が書いてあるかと楽しみにして、それを見たら、「鬼、途中で終わる」と書いてあるのです。「あれをして」「これをして」と、苦労を認めてもらったのはいいが、最後に「途中で終わる」と書いてあったので、この商人は気に入らないのです。これを子孫に残したらどうなりますか。「一生懸命やって財産を残したけれども、うちの先祖は途中で終わったのか。どうしようもないな」となりますね。だから、これは残せません。しかし、一代でそれだけの富を築く商人ですから、大金かけた屏風だし、お蔵入りにするのはもったいないということで、今度は蓮如さんのところに持っていったのです。その商人が、蓮如さんに「何とかうまく直してくれないか」と頼んだのです。蓮如さんも書いてくださって、取りにきた商人は、また一枚ずつ見ていくのですね。「あれをして」と書いてあるところの下に、「そのとおり」と書いてある。「これをして」の下にも、「そのとおり」と。最後に何と書いてあるか。「途中で終わる」をどういうふうにひっくり返してくれているかなと思って見たところ、「途中で終わる」の下は、「まったくそのとおり」と書いてあったそうです。

私たちはどうなのかということです。自分は途中で終わるのか、終わらないで済むのかどうか。何歳で亡くなるかという問題ではないのです。要するに、「途中で終わる」ということを、仏教では「空過[くうか]」と言います。「いろいろなことをした。あれもして、これもして、それなりのものを残した。しかし、最後に何だったのか。何のためにこういうことをしたのかな。空しいな」という思いで死んでいかなければならないのを、「途中で終わる」というのではないでしょうか。

今、いのちがあなたを生きている ─願いこそが「いのち」─

もう一つ、これと反対のお話があります。18年ほど前ですが、石川県の明円寺報『人間成就』に掲載されていたお話です。浄土真宗のご家庭の、あるお母さんが、お腹に宿った子どもさんを10カ月間お腹におくと母体がもたないので、あきらめるよう、お医者さんに言われました。するとお母さんは「私は浄土真宗の信心の厚い家に生まれました。そして物心ついた頃から母に言われたことは、今度、人間にうまれさせてもらったのは仏法を聞くためだよ。どうか仏法を聞いてくれよと教えられて育ちました。おかげさまで今ではいつ死んでも、仏さまにしてもらう身にさせていただきました。だから、先生、私のことはもう大丈夫です。どうかこの子を人間界に出してやってください。お願いします。もし今この子を闇から闇へと葬るなら、この子がまたいつ人間界に生まれ出る保証はございません。またよし人間界へ生まれても、仏法の聞こえる家に生まれるという保証はございません。いわんやお念仏の声の聞こえる家に生まれるという保証はございません。先生、私の事はもう大丈夫です。どうかこの子を人間界に出してやってください。人間界に出してやって下されば、私の嫁いだこの家も熱心なお念仏の家です。この子は必ず仏法を聞かせてもらうことができます。どうか先生、この子を人間界に出してやって下さい」とおっしゃいました。お腹のお子さんが産声を上げると、22歳のお母さんは亡くなっていかれました。そのお子さんがお父さんからこの話を聞いたのは中学生のときでした。それからというもの、このお子さんは熱心に仏法を聴聞し、母子共に助かる医術をと医者になることを志し、今は産婦人科の病院長になっています。この話は何度聞いても、心に響き、教えられます。

説明などいりません。お母さんのいのちはこのお子さんに伝承されています。「いのち」とは本当の深い願いということでしょう。私たちは何を願われているのか、そのことに気付かせていただくほかないのではないでしょうか。母親のいのちは数え年22歳で終わりましたけれども、終わっていないでしょう。終わっていないですね。

私の寺で、だいぶ前に掲示板に掲げていた法語があるのです。「願いがいのちです。このことがはっきりすれば生きる力が与えられます」という言葉があります。いのちは願いなのです。私も電車でよく移動しますけれども、明るい顔の人が少ないですね。私もその一人かもしれませんけどね。願いがはっきりしないのですよね。私たちのいのちが願いをかけられているのです。真宗は願いをかけられて、そのかけられた願いを聞く教えです。このお医者さんには親の願いがかけられているのです。それは仏さまの願いです。その願いが生きる力となっていたのでしょう。私のいのちには仏さまの願いがかかっているのです。

2011年に親鸞聖人の七百五十回御遠忌があります。本多ご住職もそのテーマの委員会にかかわっておられます。御遠忌のテーマ、「今、いのちがあなたを生きている」は、とてもいいテーマだと思いました。なかには、「文法になっていないではないか」「分かりにくい」ということを言われる方もおられます。しかし、私は文法の問題ではないと思うのです。感覚の問題だと思います。「うーん」とうなるようなテーマだと思いましたですね。

和田稠先生が、去年1月1日に亡くなられました。91歳でしたか、正確な年はちょっと忘れました。その和田先生がおっしゃっていました。お別れのときに、いつも「また今度」と言うと、「おいのちがありましたらね」とおっしゃっていました。「おいのち」と言われるのです。普通でいうと自分の「いのち」ですけれども、それに「お」をつけておられました。だからこのテーマも、「今、おいのちがあなたを生きている」というと、いのちの公性がもっとはっきりしてくると思っています。要するに、「おいのち」というところに、いのちの公性があるのです。いのちといった場合には、いのちが私有化されるというか、物化される。受け取り方によってはそういう可能性があるのではないかと思うのです。「おいのち」と言ったほうが公性があるというのが私の感覚です。「今、いのちがあなたを生きている」でもいいのですけれども、私は、「おいのちが、私を生きている」というふうに受け止めさせていただいております。

東南アジアのお寺に行きますと、お釈迦様の像がたくさんあります。あぐらをかいて、右手が大地に付いている形のものが多いのです。これを「触地印[そくちいん]」というのです。「地に触る」という意味です。これは、お釈迦様がお悟りになったときの姿だと聞いたことがあります。大地に指を付けることによって、すべてがつながっているということを表すそうです。大地というのは、すべてにつながっている。海ともつながっている、川ともつながっている、木や空とも、全部つながっているということを表しているお姿だそうです。

ティクナットハンさんの詩に、「一枚の紙に雲を見る」というのがあります。

もしあなたが詩人であるならば、
この一枚の紙の中に雲が浮かんでいることをはっきりと見るでしょう。
雲なしには、水がありません。
水なしには、木が育ちません。
そして、木々なしには紙ができません。
ですから、この紙の中に雲があります。
この一ページの存在は、雲の存在に依存しています。
紙と雲とは、極めて近いものです。
この小さな一枚の存在が、宇宙全体の存在を表しています。

もっと言うならば、皆さん一人一人が宇宙全体の存在です。みんなとつながっています。全部つながっています。つながっていないものはないといっていいぐらいです。私たちは、そこまでなかなか考えないでしょう。

私のいのちは、すべてのつながりによって支えられているのですね。私たちは自分で自分のいのちを勝手に生きていると思いがちですけれども、事実はそうではないのではないかと思います。本当は、私が私のいのちを生きているのではなく、すべてつながっている阿弥陀のいのちが、私を私たらしめてくださっているのです。そして、「空しく過ぎるなよ」、「途中で終わるなよ」といういのちを生きてほしいと願いかけてくださっているのです。願いかけてくださっている、「おいのちの願い」に立ち戻っていく。そういうところから、本当に人間が人間になっていく道が開かれてくるのではないでしょうか。時間が来ましたので、これで終わらせていただきます。どうも、ありがとうございました。

橋本正博先生
法話会後の懇親会

Index へ戻る ▲