あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

今、いのちがあなたを生きている

私は私でありたい

今日の経済至上主義の社会では、私という存在が「ある」という人間存在そのものの尊さがまったく見失われてしまい、何を「する」のか「できるのか」という価値基準により、人間がモノとして扱われている社会であり、誰もが本当に生きた実感が持てずに、孤独と空しさに苛まれながら生きているのではないでしょうか。それだけに「私は私でありたい」という根源的な要求が、一人ひとりの心の奥底にあることも事実でありましょう。

このことを確かめ合うためには、ともに聞法する場(僧伽[さんが])がとても大切だと思います。なぜなら教えに生きている人に出遇うということにおいて、本当に教えにふれることができるからです。

私のお預かりしているお寺の聞法会に、現代の成果主義の渦中で軽いうつ状態になったことから聞法をはじめたサラリーマンがおられます。当初は、「真宗の教えはきっと役に立つはずだ」と思って、いっしょうけんめい聞法していました。しかし、教えを聞く同朋(仲間)に「教えを聞いても現実はけっして変わらない」とはっきり言われたことが転機になり、自分自身のあり方に目を向けるようになっていきました。成果があったときの自分は「善」、そうでない自分は「悪」という生き方が問われはじめたのです。役に立っているときの自分は、そうでない人間を切り捨て、自分も役に立たないことになれば、自分をも切り捨てる深い人間の闇があるからです。聞法を通して、彼はそういう自分のあり方が照らし出され、うつ状態になるような生き方しかしてこなかったことに気付かされたのです。

親鸞聖人の教えは、どんな自分であっても決して見捨てず、「これが私だ」と、自分を引き受けていく基盤を与えてくれる。今、ここに生きて「ある」ことに感動した時、あらゆるものに自分が支えられてあることも見えてきたと彼は言います。それは、自分の思いを超えた無限の広がりをもったいのちの「はたらき」と出遇ったということでしょう。しかし、彼は立派な人間になったのではありません。悲しいかな、人間はどこまでも凡夫です。だからこそ、真実の教えが「今、いのちがあなたを生きている」とよびかけ続けるのです。

彼にとって、御遠忌テーマの「いのち」とは、自己のあり方の闇を破り、凡夫のままに苦悩の現実を引き受けていく意欲をあたえる「はたらき」であり、「願い」だと了解できたのでしょう。そのことに気付かされた時、その「いのち」は彼ばかりでなく、あらゆる人びとを目覚まさせる「本当の願い」だったという世界が開けてきたのです。

この文章は、『名古屋御坊』(名古屋別院発行)2007年3月号に掲載された蓮光寺住職執筆の「御遠忌テーマに思うこと (2)」を転載したものです。

Index へ戻る ▲