出張のついでに秋の瀬戸内を旅してきた。酒蔵のある小さな町を訪ねれば、観光客の歩く格子戸と石畳の道で土地の子どもたちが鬼ごっこをしている。ローカル線に乗り紅葉の山並みに目をやれば、どこへ行くのであろう老婆が一人、田んぼのあぜ道を歩いている。フェリーで海を行けば、名も知らぬ無数の島を背景に小さな漁船がシルエットをなし、近付くと、太い腕の若い漁師が船の上で何やら網を繕っているのが見える。
ずいぶん前から、旅に出るといつも同じ思いにとらわれてきた。目にするすべての人々を僕は知らないし、その人たちも僕のことを知らない。この先、彼らと出会うことはおそらく二度とないし、出会ったとしても、今日のことを覚えているはずがない。僕が今消えてしまったとして、彼らにどのような関わりがあるだろう。互いの存在を知らないひとりひとりが同じときを生きているという現実に自分の存在の希薄さを知らされ、果てしない絶望を感じるのだ。
船を降りて山里を歩くと、その集落の人々が守っているお墓があった。安芸門徒の土地柄にふさわしく、墓石には「倶会一処」と刻まれている。じたばたと暮らしながら、帰るところは定まっていると教えられていた自分に気付かされる。
詩人の高見順がその病床で「帰れるから/旅は楽しいのであり/旅の寂しさを楽しめるのも/わが家にいつかは戻れるからである」と書いていたことを思い出したのは、帰りの飛行機の中だった。人生を旅にたとえる人は多いが、旅先にあって感じる果てしない絶望は、実は生きる勇気である。中学の頃に出会ったこの詩に再びめぐり逢った思いがした。